赤穂屋本館

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 アグネスデジタルが自身の立てたスケジュールを守れていない。それは朝日が西から昇るかの如く、この世で最もあり得ないことの一つだ。

 夏合宿に向かう、どこか浮足立つようなバスの中で彼女は一人焦っていた。本来なら夏合宿前にはとっくに終わらせているはずの教科の宿題が、まだ最後まで終わっていないのである。予定ではもう宿題は終わらせて、来たる夏の祭典に向けた原稿に着手しているはずだったのに……。彼女が合宿に持ってきた宿題は数学と理科。よりにもよって苦手な理系科目ばかりを残してしまったのだ。

(は、早くやらなければ……!)

 夏合宿一日目。トレーニングが終わったあとも夜の砂浜で自主トレーニングに励んだり、それぞれの部屋で恋バナやボードゲームに興じたりするウマ娘が多い中、ただ一人デジタルは夏休みの宿題を開いていた。宿舎の一室の古びた低い長机にA3やB4の紙束が広がる。色紙いろがみにでかでかと印刷された「中等部の数学」「中等部の理科」という文字が彼女を一層尻込みさせた。

 もちろんデジタルだってこんなもの、残したくて残していたわけではない。むしろ予定では夏合宿前には終わらせていて、ここに広がるのは愛すべきB5の漫画原稿用紙のはずだったのだ。それがなぜこうなっているのか。……いくら自分を責めたところで過ぎ去った時間は戻らないし、このわら半紙の束がケント紙に変わるわけでもない。このまま正座を続けても額から汗が垂れるだけだからと、デジタルは観念して「中等部の数学」に手を伸ばした。

「デジタル君。宿題かい? 珍しいね」
「ひょぎょわああああ‼」

 突然後ろから愛しいウマ娘ちゃんの声が聞こえてきて、大量の紙束と向き合っていたデジタルは衝撃で全身で畳の上に転げてしまった。ざりざりとした藺草いぐさの感触が膝と腕に擦れる。声の主は、寮のルームメイトであり今回の合宿でも相部屋となったアグネスタキオンだった。

 デジタルにとってタキオンはもちろん愛すべきウマ娘ちゃんの内の一人であるが、それ以上にまだ謎の多い人物でもあった。今年の春に自分が入学して、タキオンと一緒の部屋で暮らすことになってから今日に至るまで、彼女とまともに話したことが無かった。タキオンは一日の大半をトレーナー室か旧理科準備室で過ごすので滅多に部屋に帰ってくることがない。それに自分は自分でタキオンが起きる前に登校してしまうから、顔を合わせる機会がほとんど無い——それ故、お互いの寝顔はよく知っているのに、言葉を交わしたことがほとんど無いという奇妙な関係に落ち着いてしまったのである。

 そんな相手に突然声をかけられたものだから、思わず奇天烈な悲鳴を上げてしまった。畳の上で崩れているデジタルをよそに、タキオンはデジタルの宿題を一束さっと取り上げる。

「ふぅン。さすがはデジタル君……基本的な問題は全て終わらせているね」
「あわ……あわわ……」

 タキオンはデジタルの宿題に目を落とすと、パラパラと捲りながら彼女の解答や進捗状況を把握していった。他人、ましてやウマ娘ちゃんに見せるつもりで書いた字ではなかったから、こうして他人に読み込まれるとなんだか小恥ずかしい気持ちだ。

 タキオンの言う通り、基本問題はとっくに終わらせている。今回彼女にとって障壁となっていたのは応用問題で、冊子の最後に、今持っている知識で解ける(はずの)入試問題が織り込まれているのである。普段なら自分のできる限りで当たってみてから模範解答を見て「なるほど」と理解するようなものだが、あいにく今年の数学と理科の担当の教師は二人とも模範解答を生徒に渡さないタイプの教師だったのだ——しかも、提出するからには白紙では許さないという。彼らが教育的に正しいかどうかはさておき、このようなタイプの教師が生徒から煙たがれるということは言うまでもない。デジタルもそんな彼らに悩まされている生徒の一人だった。

 タキオンの指が冊子の後ろの方に差し掛かると、畳にへたり込んでいるデジタルからでも白紙が目立っているのが見えた。タキオンは紙を捲る手を止めずにデジタルに話しかける。

「やっぱり、入試問題は君でも難しいかい」
「は、はい……放っておいてもいいかなと思ったのですが、数学も理科も……ってなるとちょっと良くないか
 なぁって……」
「やっぱり君は真面目だねぇ」

 タキオンはまるで撫でるような声でそう言うと、机の上に冊子を戻し、未だ畳の上でわなないているデジタルのすぐ隣に座った。それが至極当然だと言わんばかりの淀みのない動作だ。彼女の目線が降りてきて、その紅い瞳とばっちり目が合った。

「……………え?」
「ン? どうしたんだい?」
「ひぇ、タキオンさんはなぜあたしの隣に?」
「なぜって……、君の勉強を教えるために決まっているじゃないか」
「え……」

 次の瞬間、デジタルの鋭い絶叫が宿舎の廊下を貫いた。
「ええええええええ‼‼‼」

 わなわなと口を震わせるデジタルをよそに、タキオンはにこにことした表情を崩さない。

「え……タキオンさんのマンツーマン指導なんて至極の贅沢……ッ、そんな、いいんですかぁ……?」
「もちろんいいとも。まぁ、君のデータというお礼は貰いたいかな。夏合宿中のウマ娘のデータなんてなかなか取らせてもらえるものではないからね」
「そ、それはもちろんですぅっ‼」

 必死に承知する旨を伝えながら頭を上下に振る。あの憧れのウマ娘であるタキオンに勉強を見てもらえる上にトレーニングでも一緒に行動できるだなんて、ご褒美を通り越してもはや夢のようだ。

「ハハ、じゃあ決まりだね。まずは君の宿題からだ。さぁ、どこから解こうか」
 そう言ってタキオンが座っているデジタルに身を寄せ冊子を手に取る。タキオンの少し汗ばんだ細い腕がデジタルのそれに接触した瞬間、やはり夢だったかとデジタルはとうとう意識を失ってしまい、結局その日の宿題は全く進まなかった。


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