赤穂屋本館

そしてまた春は巡る

 その日のトレーニングを終えて部屋に戻ってきたデジタルは、夕焼けに染まるカレンダーの隅に今日の日付を見つけた。

「あ、今日って——」

 〝推し〟たるウマ娘ちゃんの誕生日やライブの当落発表の日、チェックしている同人即売会の日など普段からとにかく予定の多い彼女だが、その日はデジタルにとって特に忘れられない日のうちの一つだった。たちまち記憶の波に攫われて、デジタルは思わず目をつむった。

(もうあれから一年が経つんですねぇ)
 それは、アグネスデジタルにとって忘れられない日だった。

 

 自分の体より一回り大きくて、袖を通すとどこかまだ着られているような感じのするセーラー服。傷一つない、ぴかぴかのスクールバッグ。ずっと憧れだったトレセン学園の制服に身を包んで臨んだ入学式。一年前の、デジタルがまだ新入生だった頃の記憶だ。

 空を淡く彩った桜たちは間もなくその役割を終えて、ドレスを脱ぎ捨てる。地面に散っていった花びらが土の色と同化して、代わりに若葉と青空が競うようにして高くなっていった頃。ようやく桜花に等しいまでの輝きを放つウマ娘ちゃんたちにも慣れてきたデジタルに、ある連絡が入ってきた。

『デジタル、お疲れ様です。
 実は君と同じく一人部屋の先輩が出てきて、良かったらその子と同じ部屋になってほしいんだけど……』

 栗東寮の寮長であるフジキセキからのLANEであった。

 デジタルは入学して以来二人一部屋という学園寮の原則から逃れ、一人部屋生活を貫いていた。憧れのウマ娘ちゃんと同じ学校に通えるだけで恐れ多すぎていつ供給過多で尊死してもおかしくないのに、毎日同じ部屋で特定の一人のウマ娘ちゃんと眠るだなんて、想像だけで卒倒しそうだった。とても有難く——そして罪深く、デジタルに耐えられるものではなかった。トレセン学園は元々中退者の少なくない学園であり、一人部屋が生まれること自体は珍しいことではない。「せめて学園生活に慣れるまでは一人で生活させてほしい」というデジタルの嘆願は、寮の部屋が圧迫してきたら二人部屋に入ってもらう、という条件付きであっさり認められることになった。学園には毎年様々なタイミングで転入生も入ってくるため、「いつかはデジタルにも二人部屋に入ってもらうからね」とフジキセキには釘を刺されていた。今はいいけれど、じきに自分も二人部屋に組み込まれることであろう。この生活には必ず終わりがあり、いつかはこの学園の誰か一人を自分の同居相手として迎えなければならない。デジタルは毎晩空っぽのベッドが視界に入るたびにいつか来るその日を想像してはわなないていた。

(——……ついに、その時が……)

 正直思っていたよりもその時はずっと早かった。寮長の仰ることに逆らう気などさらさら無いが、しかしデジタルは入学して少なくとも数カ月は一人で生活できるだろうと踏んでいたのだ。その理想とも言える勝手な想像は僅か数週間で崩れることとなった。正直まだウマ娘ちゃんに完全に耐性ができたとは言い切れないが、自分の都合で寮の運営を滞らせるわけにもいかない。デジタルは震える手でフジキセキからのLANEに返信をした。
『お疲れ様です。もちろん大丈夫です』

 ◆

「おかしいなぁ……十六時に約束していたのに。LANEにも既読が付かないし」
「……」

 デジタルは隣にいるフジキセキの美貌に見惚れていた。こんなに近くでご尊顔を拝見したのは、それこそ一人部屋で生活させてほしいとお願いをしに行った入学式の日以来であった。青鹿毛の髪に白い流星が短く輝く。彼女の瞳はデジタルと同じ青色だが、自分にはない上品さを湛えている、とデジタルは自身の脳内メモに記していた。

「ごめんね。もうすぐ来ると思うんだけど」
「ぴゃっ! こちらこそ——ひぇっ、大丈夫でしゅ」

 フジキセキが急にデジタルの方に向き直り謝罪した。デジタルは一瞬何について謝罪されたのか分からず、むしろフジキセキの横顔を盗み見していたこちらが謝るべきではないのかと思考を巡らせたが、いや彼女は待ち人が来ないことを謝っているのだということを即座に理解した。

 あのLANEから話はとんとん拍子に進み、早速その日の放課後に同室相手のウマ娘と顔合わせをするということになってしまった。十六時に栗東寮の二階の左側、一番奥の部屋の扉の前が待ち合わせの場所……なのだが、どうやら肝心の部屋の主が時間を過ぎても現れない、らしい。デジタルは隣に立つフジキセキの美貌に夢中で、自分が置かれた状況を整理する余裕もなかった。

「そうだ。そういえば、この部屋に住んでるウマ娘の話をしていなかったね」

 フジキセキは思い出したように話を始めた。
 LANEでは高等部の先輩としか伺っていなかったが、名前をアグネスタキオンと言い、普段は今日のようにあまり寮の部屋には帰らず、自身の研究室に籠って研究に没頭することが多いらしい。ウマ娘の名において、全く見ず知らずの者と名前の一部——冠名と呼ぶ者もいる——が被ることは珍しいことではない。だが幼少期を海外で過ごしたデジタルにとってその知識こそ知れど、いざ同じ冠を持つウマ娘と邂逅するとなるとどこか運命めいたもの——いや、ときめきすら感じていた。

 アグネスタキオンさんは、一体どんなウマ娘ちゃんなのか。デジタルは入学して以来あらゆるウマ娘ちゃんの情報収集に努めてきたつもりだったが、トレセン学園に在籍する生徒の数は一人で把握しきるには当然ながら多すぎる上、中等部から物理的・心理的にも距離のある高等部の学生についてはなかなか追いきれていなかったのだ。フジキセキの話を聞く限り、アグネスタキオンというウマ娘はどうも癖の強い性格の持ち主のようだったが、それでもデジタルは未知のウマ娘ちゃんとの出会いへの期待に胸を膨らませていた。

 そうして彼女を待っていた折、階段の奥から足音が聞こえてきたような気配がして、デジタルは反射的に顔を向けた。それに気づいたフジキセキが同じ方を見ると、そこには——

 

「おや、デジタル君」
 アグネスタキオンが、いつの間にか自分の目の前にいた。頭頂部の長い毛と耳が揺れている。これは記憶のじゃない、本物のタキオンさんだ!

「ギャ!?」
「珍しいね、君がカレンダーにうっとりするなんて」
 デジタルが声に驚いて思わず目を開くと、そこにはたった今帰ってきたらしい、机の上にカバンを下ろすタキオンの姿があった。彼女の栗毛の美しい髪が夕焼けに浸されて柔らかく光を返している。

「ひぇ、ええと、カレンダーにうっとりしていたわけではなくてですね……ほら、今日はあたしがこのお部屋で暮らすようになってからちょうど一年なんですよぉ」
「ふぅン?」
 タキオンはデジタルの言葉を聞くと自身のスマホで日付を確認した。

「あぁ……確かにデジタル君がここに来たのはこれくらいの時期だった気がするねぇ」
「はいぃ……」
 タキオンは喋りながらカバンの中の教科書や書類を机の上に積んでゆく。彼女の机には実験結果を集積しているであろうA4のコピー用紙の束が既に縦にも横にも伸びているが、本人はどこに何のデータがあるか全て分かっているようで、普段実験に出るときは必要な書類だけを選んで出ていく。そういうところを見るたび、デジタルは「タキオンさんとは頭の容量から違う」と実感するのだ。

「それにしても、デジタル君と一年間も暮らすことになるとはねぇ……」
「はわわ……恐縮の極み、感謝感激ですぅ……」
「フフ……実はね、私と一年間暮らしたウマ娘は君が初めてなんだ」
「へっ?」
 タキオンから出た意外な言葉に、デジタルは首を傾げる。

 自分と暮らし始めてからのタキオンについては、観察できる限りのことは全て知っているつもりだった。しかし『推しのプライベートに無闇に踏み入るべからず』という鉄則を己の胸に刻んでいるデジタルは、自分と暮らし始めるより前、即ち過去のタキオンについて何も知らないことに思い至った。

「……そうか、君には話していなかったか」
 首を傾げるデジタルを見て何かを理解したのか、タキオンは自分の椅子に座るとどこか遠くに視線を合わせた。

「ちょうどいい機会だ。デジタル君、時間はあるかな? もし良かったら、君が来る前の私について話しておきたい」
 タキオンの深い瞳がデジタルの方を向く。デジタルは、煙るような睫毛から覗くその瞳に吸い寄せられるように頷いた。

「そして四人目の新入生の君が、どうして一年間ここで暮らせたのかについてもね」

 

 もう桜もとうに散ったのに、というのが彼女を見たときの第一印象だった。
 大人しい子だった。おずおずといった様子で「今日からお世話になります、アグネスデジタルと申します」と畏まった自己紹介をもらったときは正直、ああこの子もすぐに去ってしまうのだろうなと思った。だがその時の私には、彼女が自分にとってかけがえのない存在になるなんてことを知る由もなかったのだ。

「タキオン」
 その日も実験の帰りだった。もうとっくに夜に沈んでしまった廊下を歩いていると、後ろから誰かに声をかけられた。

「フジ君」
 いつの間にか私の後ろにいたフジ君が、笑顔で軽く手を振る。

「やぁ。今日は何か成果は得られたのかい?」
「もちろんさ」
 フジ君がいつもの軽快な笑顔で尋ねるものだから、つい私も弾んだ声を出してしまった。
 その日はずっと苦心していた薬品の開発に進展があった。ちょうど新しく同室になった新入生から得たデータと、加えてトレーナー君からも得られたデータで不足物のヒントがやっと掴めたのだ。ちょうど通販で新たな薬品を買おうと部屋に戻る道すがらであった。

 きっとその喜びが顔に出ていたのであろう、フジ君は私の表情を見て困ったように眉根を下げた。

「そっか……実はね、君に悪いニュースがあるんだ」
 彼女の言う悪いニュースについて、私はもう大体予想がつくようになっていた。

「……また、、かい?」
「そうなんだ」
 フジ君は胸の前で腕を組み、目を鋭くさせた。

「タキオン、また入ってきたポニーちゃんに実験をしたね? 授業中も練習中も体が光って仕方がなかったとまた苦情が入ったよ」
「ふぅン? 彼女は体のどこが光っていたとかは言っていなかったのかい?」
「タキオン——」
 フジ君は私の質問を聞くと呆れた表情を浮かべた。

「ねぇ、これで何回目になるかな? ——君が同意を得ずにポニーちゃんを被験体にして、そして一緒の部屋で過ごすのを断られたのは」
「……二回目かな?」
「三回目だね」
 彼女はいつもの気さくな寮長としての笑顔を崩さぬように努めているようだが、口の端の筋肉が少し強ばっている。

「私はね、この寮で暮らすウマ娘達皆に楽しい生活を送ってほしいんだ。……これまではたづなさんやルドルフには『新入生側の都合』って伝えてきたけど、もうそろそろ苦しさもある。だからタキオン、君の次のルームメイトには一切の実験を禁止させてもらいたい」
「な——」

 思わず私は言葉を失った。それは困る。私の理想を追求するには様々なサンプルが必要だ。今後入ってくるルームメイトに対して一切の実験を禁止となると、多くのウマ娘のサンプルを揃えることが難しくなる。

「実験について同意を得ていてもダメかい」
「そうだね、でもそもそもタキオンの実験に協力してくれる子がこれから現れるのかどうか……とにかく、今の時期は新しいポニーちゃんのための仕事が立て込んでいてね。しばらくの間は控えてほしいかな」
「……」
「タキオンの探究心を踏みにじるような真似で申し訳ないけれど……これは寮長令だ。頼むよ」
 そう言って彼女は頭を下げた。普段から穏やかな彼女にこうして頭を下げられてしまっては、要求を呑み込むしかない。

「……わかったさ」
「本当かい? タキオン」
「ああ。被験体は自分で探すことにするよ」
「そうしてくれると助かるな。それと、実験をするときは同意はきちんと取ること。相手がどんなに親しい相手であろうと」
「まぁ……そうだね」
 被験者の同意については回答しかねる。私は曖昧な答えで濁して頷いた。

「じゃあ、私からのお話はこれでおしまい。引き止めて悪かったね」
「いいや。ありがとう、フジ君。おやすみ」
「おやすみなさい」

 フジ君に別れを告げて、お互い各自の部屋の方へと足を向けた。

 あの新入生の栗毛のウマ娘。今日で私と相部屋になって三日目だったが、もう去ってしまうのか。もう真っ暗になった部屋で彼女の寝顔を見てもなお、私は名前を思い出すことができなかった。

 

 次の朝私が目を覚ますと、向かいのベッドがいつの間にか空っぽになっていた。並びの机にも荷物が一つも残っていない。新入生の栗毛のウマ娘は私がまだ眠っている間にもう荷物をまとめて出ていってしまったらしい。ちょっと体が光ったくらいで大袈裟な。この実験が今後のウマ娘の競走史に大きな影響を及ぼすかもしれない、ということをもう少し強調すべきだった。そうしたら彼女だってこんなにおっかなびっくり部屋を出る必要はなかったのだ。

 ……まぁ実験に協力してくれる新入生なぞまだまだいるだろう。心のどこかでそう思いつつ、私は次のレースに向けての練習と研究で忙しくなってしまい、新入生の勧誘をすることは叶わずにいた。

 そうして一人での生活にも慣れてきた頃、フジ君から『今日からまた新しいポニーちゃんが君と相部屋になるから、よろしくね』と連絡があった。もう四月も終わりかけだったものだから、私はてっきり最後の新入生が出ていってから今年はなんとなくこの流れで私一人の部屋になるものだと思っていたのだ。

 実は私は、一人で暮らすのは初めてではなかった。以前の最終的なルームメイトは年上のウマ娘で、これまた相手を決めるときは難儀したものだ。結局、海外のレースに挑戦していて、日本にいる時間の方がもはや少ない卒業直前のウマ娘と同室になった。その頃から私は、トレーナー君やカフェの世話になりっぱなしだった。

 私は前の新入生が去ってからもう一人分のスペースにも置いていた自分の荷物の内容について考えていた。私が一人で二人分のスペースを占有することは初めてのことではなく、結局新入生が来るまでに私が片付けられず新入生と一緒に来たフジ君に叱られる——ということを今年も何回か繰り返していた。きっと私は今回も片付けられないのだろう。新たな実験材料になってくれるかもしれない新入生を歓迎しなければならないのは分かってはいるのだが、それにしても片付けのために腰を上げるのは難しかった。私にとっては、片付けによって得られる成果がそれを為すためのリソースと釣り合っていないからだ。

 その日の夕方、部屋に戻ると扉の前でフジ君と知らないウマ娘が並んで立っているのが見えた。二人とも少し困った様子だ。そうか、そういえば新入生が来るのは今日だったか。私が二人のもとまで近付くと、新入生のほうが先に気付いて振り向いた。

「こら、タキオン。十六時から新入生が来るって言ってたじゃないか」
 新入生の頭の動きで私に気付いたフジ君が、私を軽く叱った。研究室を出たときは確か十六時半頃だったか。

「まぁまぁ。こうして会えたのだから良かったじゃないか」
「もう……——あぁ、この人が君の相部屋になる、アグネスタキオンだよ」
 フジ君から私の自己紹介をもらった新入生が、サッと背筋を正したあと丁寧に頭を下げた。

「は、はじめまして! あた……私、アグネスデジタルと申しますっ!!」

 ——ほほう。彼女の名前は今まで私の部屋に入ってきた新入生の中で一番覚えやすかった。何と言っても名前の半分も同じ音が入っているのだ。それにトレードマークです、覚えてくださいと言わんばかりに激しく主張する赤いリボン。流石の私でもこれだけ特徴があればすぐに覚えられるだろう。もっとも、彼女の記憶を保持する必要が生まれるかどうかはまだ分からないけれど。

「はじめまして。私の名前はアグネスタキオンだ。これからよろしく頼むよ」
「ひゃいっ!!」

 まぁしかし、正直この子もすぐ去ってしまうのだろうなと思っていた。この僅かな間で彼女が真面目な子だというのは痛いほど伝わってきた。きっとこの子も彼女らと同じく数日したら去っていくのだろう。

「じゃあね、タキオン。デジタルのことをよろしく頼むよ」
「……ああ」
 私達がお互い挨拶を済ませたのを見て、フジ君はにっこりと微笑んで去っていった。

「では、入りたまえ」
「は……はい!」

 ポケットの中の鍵を取り出して部屋を開ける。とりあえず自分の机にカバンを置き、さてこの新入生にどんな実験をしようか——と思案しながら携帯を確認すると、一件のLANE通知が入っているのが目に入った。

『忘れてないと思うけど、デジタルには実験しちゃダメだよ。よろしくね』

 ——そうだった。すっかり忘れていた。この子には実験をしてはいけないのだった……。

「あの……すみません」
 私が項垂れていると、後ろからか細い新入生の声が聞こえた。振り返ると彼女は部屋の入り口で一回りか小さくなって縮こまっている。

「あたしは……どちらのスペースになりますでしょうか……」

 言われて部屋を見渡し、荷物で溢れた部屋のこの状態を改めて認識する。二人部屋で本来生まれるはずの暗黙のラインはもはや崩壊し、まるで岸辺に打ち上げられたかのように書類の束や脱ぎ捨てた洋服の塊が散乱している。

 しまった。今回はフジ君が手伝ってくれなかったんだった。私は新入生に「すまないね」と言いながら、その日はとりあえずベッド周りだけ確保してそこで過ごしてもらった。新入生はというと、私の隣でおろおろと落ち着かない様子だった。

 ◆

 それから私達は、お互いの顔も見ぬまましばらくの間過ごすこととなる。

 というのも『実験禁止』の寮長令を出されてしまった私に居場所となってくれたのは、トレーナー室と私の研究室がある旧理科準備室くらいだったからだ。同室の新入生に実験が禁止となると、私にもはや寮の部屋というのは必要なかった。

 ああ、困った。トレーナー君はそもそもウマ娘ではないし(むしろより興味深い結果が得られる場合もあるのだが)、カフェやポッケ君は本格化を迎えた後のウマ娘だ。実験において、サンプルと試行回数は多いほうが良い。だからこそ新入生のような本格化を迎える前のウマ娘を実験体として迎えられればと考えていたのだが、今年の他の新入生達にも『薬を使って体を発光させたり教室を爆発させたりする先輩ウマ娘』の噂は広まったらしく、最近は道行く中等部らしきウマ娘達が私に対して距離を取るようになった。去年はフラワー君やスペ君に協力してもらっていたが、今年に入ってスカイ君やフジ君に止められることが増えてきた。三月にそれまでのルームメイトが卒業するので新しいルームメイトに実験体を頼めれば、と思っていた矢先の実験禁止令だ。私は自分の研究スケジュールに大きな穴を空けてしまう羽目になった。

 そういう訳で私は去年よりも規模を縮めて実験を行うことになった。どうしても被験者の数が減ると、自ずと結果から導き出せる可能性の幅が狭まる。私を含む全てのウマ娘の中に眠る未知の可能性。私はその未知の領域を可視化し、自分自身の脚でその領域まで到達するのが人生の目標だ。人材不足に陥るということは、それ即ちウマ娘の可能性が閉ざされてしまうということに等しい。これは由々しき事態だ。私自身レースの予定が控えていたし、それに向けてのトレーニングもあるので人材確保にばかりかまけていられないというのがその時の状況であった。

 新入生君が私の部屋に越してきて一週間ほど経った頃、私は久しぶりに寮の部屋で眠ることになった。というのもしばらく旧理科準備室のソファで眠る日々を送っていたところ、トレーナー君にもカフェにもやれ寝ろだの、やれやつれた、、、、だの言われるようになってしまっていたのだ。ちょうど研究室にも実験データが溜まってきた頃だったので、私はデータをまとめ上げていくらか寮の部屋に移すことにした。

 久しぶりに部屋の鍵を開けると、およそ私の記憶とは違う光景――書類は机の上で大人しく鎮座させられ、服は綺麗に畳まれ整列させられている――が広がっていた。私は違うウマ娘の部屋に入ったのかと思ったが、いや確かに自分の部屋の鍵で入ったはずだと思い直した。この数日間にトレーナー君が入ってきた? 違うな、トレーナー君は寮に立ち入れないからフジ君に要請を受けてカフェが?——

「あ! タキオンさん、お、おかえりなさいませ……お久しぶりですね!」

 私が考えていると、後ろからドアの音ともに新入生君のたどたどしい声が聞こえた。数日ぶりに会ったせいか彼女の名前が思い出せない。アグネスまでは思い出せるのだが。

「あ、ああ、ただいま……、……これは君が片付けてくれたのかい?」
「アッはい!! お荷物に触れていいのか分からなかったのですが、どうしてもタキオンさんが次に帰るまでにお掃除をしておきたくて……、すみません、ご迷惑だったでしょうか?」

 新入生君は申し訳なさそうに耳を折った。なんと、私が部屋を空けている間に彼女は私の荷物を片付けてくれていたのだ。どうやら彼女は私が転がしていた資料をただ積み上げるだけではなく、彼女なりに読み込んで『アグネスタキオンならこうする』と私の机の上を分析した上で資料を分類してくれたらしい。資料を分類する時間すら惜しい私に取っては、とても有り難いものだった。

「いいや、むしろその逆だよ! とても助かるよ。ありがとう」
「ひぇっ!? そんな……恐れ多いです……! デジたん感激ぃ……」
 そう言って彼女は顔を覆ってしまった。

 ——『デジたん』。そうだ、どんな名前だったかとずっと考えていたが、アグネスデジタルだ。

 いやしかし、まさか彼女がここまでしてくれるとは思わなかった。彼女がいつまでも部屋の入り口でおろおろしていたので部屋に入るよう促しつつ、彼女に一番大きな疑問をぶつけてみた。

「それにしても、なぜ君がここまでしてくれたんだい?」
「え!? えっと、すっごく恐れ多いんですけど、次タキオンさんがお帰りになるときに少しでも心地よく過ごしてほしくて……!」

 彼女は慎重に言葉を選びながら——しかし悠長に話すことはなく、やや慌てた様子を見せながら答えを話してくれた。

 なるほど、要するに彼女は他より献身的なウマ娘らしい。あのフジ君ですら片付けをしてくれるときは私をたしなめながらだというのに、彼女は——先輩・後輩という立場的な理由もあるだろうけれど——そもそも『怒る』という選択肢が無いように思えた。まるで自分には怒る権利がないかのような、そんな振る舞いだった。私は怒る行為をどこかに置いてきたような人を、初めて身近に見つけた。……そんな彼女をもっと紐解きたくなったのだ、私は更に問いかけを投げかけた。

「なるほどねぇ。……君は、部屋を掃除するために私の荷物を触らなければならなかった訳だけど、仮にも自分の部屋が私の荷物に占領されて、腹立たしい気持ちなどは無かったのかい?」
「……えっ?」

 私の問いを聞いて彼女はまるで「この人は何を言っているのか」と今にも発しそうな顔を——、しかし寸前で彼女はこう続けた。

「いやいやいや!! ウマ娘ちゃんのお荷物に触れるだけでデジたん幸福ですよぉ!!?! 確かにタキオンさんの素晴らしい書類にあたくしめが失礼して良いのかどうかすっごく迷いましたけど、それでも次にタキオンさんが帰ってきたときに安心してお休みいただけるようにしたくて、しかも風の噂でカフェさんがタキオンさんのご体調を心配されていると聞きまして、いや普段同じ部屋で過ごしているウマ娘ちゃん同士の信頼しきった関係尊ッ!! しかしフジさんもお忙しい今、タキオンさんの寮のお部屋を整えられるのはあたしだけと考えたらいてもたってもいられなくなったんですッ!!」

 彼女がまくし立てる様は、まさに怒涛の一言であった。先程までの遠慮がちな様子からは想像できないほどの勢いで、私は圧倒されてしまった。

 なんだ、このウマ娘は。あまりにも早口だったため言葉の全容は掴めなかったが、とにかく彼女がへりくだろうへりくだろうとしていることは分かった。今まで社交辞令としてへりくだったものの言い方をする人を見たことはあるし、私も時と場合によって使うことがある。しかしそんなもの比ではないくらいのへりくだり方だ。これが彼女の素なのか? こんなにも自分を卑下するものなのだろうか。

 しかし私が一番理解しがたかったのは彼女の瞳だった。そこに灯っている感情が『謙虚』とか『控えめ』なんて言葉で形容できるような生易しいものではないことだけは理解できた。しかしおよそ、その時の私の言語野の中に彼女の瞳に映る輝きを正しく表す語彙は存在しなかった。発されたのは確かに謙遜に満ちた言葉遣いだったのに、執念、妄信、狂気——といった類の表現が似合うのが不思議でならなかった。

「デジタル君」
「ひぇっ」
 私は気付いたら彼女の肩を掴んでいた。

 もっと彼女の中を覗いてみたい。底には何があるのだろう。

 実験の前には仮説を立てることがある。私はその時彼女について一つの仮説を立てた。——彼女が他のウマ娘に詰め寄られた場合、どのような反応を示すのか。

「——君、良かったら私の実験に協力してくれないか?」

 彼女の瞳はぐるぐると色が混ざって渦を巻き、私の顔を反射した。その様子と相反するように彼女の顔面は紅潮し、あっという間に汗でびしょ濡れになっていく。

「……ふぁ……はい……喜んでぇ……」
「フフ、良かった。これからよろしく頼むよ、デジタル君」
 私が彼女の目を見てそう言うと、彼女の身体はくたりと床に落ちてしまった。慌てて彼女の容態を確認したが、どうやら失神しているだけのようだ。彼女をベッドに寝かせてやると、何らかの生理反応が起こったのか耳がぴくりと動いた。

「……ハハッ!」
 ——まさか身体に触れられ、物理的距離が縮むだけで失神してしまうとは! 思わず笑いが漏れる。精々思わず絶句するだとか黙って首肯するに留まると思っていたのに——、彼女には間違いなく無限の可能性がある。彼女を解き明かしたい。彼女が引き起こす諸現象を考察したい。その日から、私の興味関心の大部分が彼女に向くようになった。

 こうして、デジタル君についての最初の仮説はいとも容易く崩れ去ることになったのである。

 ◆

 それから私の足はトレーナー室にも旧理科準備室にも向かわなくなった。当たり前だ。なぜなら私が欲していた本格化前のウマ娘——これは後に知ったことだが、彼女は芝も砂も走れる稀有なウマ娘であった——が自分と同室なのだから! これを利用しない手はなかった。デジタル君は私に薬品を飲まされるのも『幸せ』のうちらしく、いつも喜びながらグイッと薬を飲んでくれる。彼女ほど飲みっぷりのいいウマ娘はこれまでいなかった。デジタル君はモルモットとなり、私は彼女の体で実験をする。そういう日々がしばらく続いた。

 デジタル君は私との実験に付き合ってくれるだけではなく、日常面でも私の生活を支えてくれた。というのも私が机に向かっていると、彼女は自分と私の分の洗濯物を畳み、おまけに部屋の掃除と片付けまでしてくれるのだ。

 デジタル君の尊敬すべきは、慣れないであろう新生活の中に自身のトレーニングと二人の分の家事と実験体となるための時間を織り込んでいるところだ。初めはデジタル君自身の自由時間が無いのではと私も案じていたが、数週間も経つと彼女は教科の課題も家事もトレーニングすらも手際よく終え、私にデータを取られた後はまた机に向かって何らかの執筆活動に励んでいるようだった。私よりも一回り年下だというのに、彼女は全ての活動に全力で取り組んでいた。

 梅雨の季節には彼女の重バ場の走行データを取り、夏合宿の季節には彼女と同行して砂浜の走行データを取り……などとしているうちに、秋に入る頃にはかなりのデータが集まっていた。その頃になると今まで足が遠かったトレーナー室や研究室にも用事ができ始めて、再び私は寮の部屋を留守にするようになった。同じ頃、どうやらデジタル君は自身の趣味を独りで楽しみたいらしいということが分かってきたので、お互いちょうどいいだろうと私は部屋を空けていたのだ。

 そうこうしているうちに日が少しずつ短くなり、校内に長袖やカーディガンの生徒が増えるとソファで眠るのがどうも肌寒く感じるようになってきた。トレーナー室や研究室で眠ると次に起きたときにすぐにまた作業に着手できるのは魅力的だが、やはり最良の睡眠を得るにはデジタル君が整えてくれた温かいベッドが一番だった。夜になるとトレーナー君もカフェも以前より早い時間に帰るようになってしまったので、私も大人しく部屋に戻ることにした。

「デジタル君、ただいま」

 ドアを開けてこの一言を言うと、いつもは机に向かっているデジタル君が嬉しそうな顔で「おかえりなさい」と返してくれるのだが、その日はそんな声も姿もなかった。それどころか電気すら点いておらず、まるで留守の部屋かのようだ。いつもの彼女ならとっくに帰ってきている時間なのに……、私が訝しんで部屋を進むとベッドで眠る彼女の姿があった。今日は早いな、自分の知らない間にトレーニング負荷を上げたのだろうかと彼女の顔を覗き込むと、なんとデジタル君の顔は真っ赤に火照り、額には大粒の汗が伝っていたのだ。まさかと思い前髪を分けて彼女の額に手を当てると——

「あつっ……!?」
 思わず声に出てしまっていた。誰が診ても彼女が発熱しているのは明白だった。

 私はすぐに今まで彼女に飲んでもらった薬の内容を思い返した。私が再び部屋を空けるようになってからデジタル君には薬を飲んでもらっていなかったのだが、普段からタフな彼女がこうして倒れているところを見ると、私の薬で彼女の身体に何かしらの影響が出てしまったに違いないと思わざるを得なかった。直近では副作用に発熱を伴うようなものは調合していなかったはずだが、しかし私だってプロではない。きっとどこかで調合を誤ったのだろう、もしくは何らかの物質が体内に蓄積して……——いや、それは後だ。とにかく彼女をどうにかしなければ。

「デジタル君、デジタル君」
 名前を呼びながら体を揺すると、彼女が虚ろに目を開けた。

「立てるかい? いや、立てなくてもいい。一緒に保健室に行こう、まだ先生は帰ってないはずだ」
「……あ……」
 彼女の背中に腕を入れて上体を起こそうとすると、彼女にしては珍しく抵抗の意思を見せた。私は一瞬驚いたものの、なるべく冷静を装いながら彼女を諭した。

「……すまないデジタル君、生憎私は他の人に介抱はされても、他の人を介抱するための技術を持ち合わせていないんだ。君もウマ娘に看病されるより保健室の先生の方が——」
「ちがうんです……」
 彼女の背中を支える右腕の辺りから、微かな声が聞こえた。私は一言も逃すまいと耳をそばだてた。

「……タキオンさんが、連れて行ったら……、タキオンさんの薬のせいと思われますから……」
「それがどうしてダメなんだい」
 デジタル君は唇を震わせながら答える。

「…………あたしは、四番目、、、の新入生ですよね? ……これ以上タキオンさんの名前で何かが起こったら、タキオンさん……は……学園……に…………」

 彼女は今の言葉で限界だったのか、また目を閉じてしまった。

 なるほど、デジタル君は私の学園での立場を気にして保健室に行くのを拒否していたのか。そういう事情であればフジ君に頼むわけにもいくまい。彼女の気持ちを無下にはできなかった。

「しかし、私がデジタル君の看病を……」

 病気のウマ娘の看病をするのは生まれて初めてだった。水分補給を欠かさないようにさせるだとか、体温を下げるために氷嚢を額に乗せるだとか、消化の良いお粥を食べさせるだとか、知識として知っていることは幾つかある。しかし、それらを実践したことというのは一度もなかった。

 素人知識で病人の看護をするのは危険だ。私は思い切って他のウマ娘を頼ろうと、ある人物のもとを訪れた。

 

「わ……デジタル、辛そうですね」
 眠るデジタル君を覗き込む大きな二房の毛束。

 私はスカーレット君のもとを訪ね、事情を話し彼女に看病の手伝いを頼んだ。普段から私の頼みを何でも聞き入れてくれる優しい性格を持つことと、彼女がデジタル君と同級生であることから、スカーレット君ならきっと協力してくれると思ったのだ。彼女はもう寝間着に着替えていたにもかかわらず、事情を話すと彼女は私の部屋に駆けつけてくれた。

「デジタルはご飯は食べれてるんですか?」
「いいや、ずっと寝ているようなんだ」
 私の言葉を聞くとスカーレット君はこくりと頷いた。

「分かりました! ならアタシがお粥を作ります! タキオンさんはゼリーとかプリンとか、コンビニで柔らかいおやつを買ってきてくれませんか?」
「なるほど。わかった」
「お願いします!」

 スカーレット君の指示を受けてコンビニに走る。ひとたび外に出ると空はすっかり暗くなっていて、うかうかしていると門限に引っかかりそうだった。携帯を一瞬確認して門限までの時間を計算し、公道に出ると私はウマ娘専用レーンを一気に駆け飛ばした。

(まぁ、買うものが甘いものばかりだから別に見つかっても面倒事にはならなさそうだが)

 それにしても、やはりスカーレット君は気が利くウマ娘だ。『消化の良い』という点ばかり考えていて、デジタル君が食べたい味まで気が回らなかった。これでもこの数か月間彼女をずっと観察し続けていたのだ、彼女の味の好みは頭に入っている。イチゴのプリン。みかんゼリー。経口補水液。冷却ジェルシート。コンビニに入って、彼女が欲しているであろうものを思い浮かべながら店内を歩くと、頭の中でイメージが連鎖してあっという間に腕の中がものでいっぱいになった。

 買い物を済ませて部屋に戻ると、スカーレット君が廊下でお粥を運んでいるところに出くわした。慎重にお盆を運んでいた彼女の顔が明るくなる。

「あっ、おかえりなさい、タキオンさん」
「ただいま。ありがとう、スカーレット君」
「いえ! これくらいタキオンさんとデジタルのためならへっちゃらです!」

 両手が塞がっているスカーレット君の代わりにドアを開ける。部屋は相変わらず暗闇に包まれていたが、奥で眠るデジタル君の額の上に氷嚢が載っていた。

「おや」
「ああ、アタシが……」
「そうか」
 小声で会話しながらデジタル君の元に進む。私達の物音に気付いたのか、彼女の耳がぴくりと動いた。

「……あ……」
「デジタル君」
「デジタル、アタシ……スカーレットよ。ねぇ、何か食べられる? お粥と、あと甘いものがあるわ」
「イチゴのプリンと、みかんゼリーだ」
「あ、ありがとうございましゅ……すみません、ではお粥を……」
「分かった」

 額の氷嚢をどかし、お粥を掬って彼女の口元まで持って行ってやる。デジタル君は親鳥にご飯を貰う雛のように、首を伸ばしてスプーンに食らいついた。二口目、三口目と運ぶと彼女は同じように口を開けてくれる。普段のデジタル君に同じことをすれば卒倒は必至だろう。素直にウマ娘からの施しを受け入れるデジタル君の様子を見て、私はここまで弱ってしまっているのかと一層不安な気持ちになった。

 一頻り食べさせてやると「もう大丈夫です、ありがとうございます」と言ってまた目を閉じた。初めより穏やかな寝顔を浮かべているところを見て、私はやっと安堵の息を吐くことができた。私がぼんやりとデジタル君の寝顔を眺めていると、スカーレット君がタオルを持ってやって来た。

「氷嚢と汗で濡れちゃってると思うので」
 そう言うと彼女はタオルでデジタル君の額を優しく拭き取っていく。それに倣って私もデジタル君のタオルを取り出して首元を拭いてやる。あっという間にタオルは湿り気を帯びた。

「……ふぅ」
 最後に彼女の額に冷却ジェルシートを貼ると、私とスカーレット君は同じタイミングで溜息を吐いた。

「ハハ、疲れてしまったねぇ」
「あっ、ごめんなさい、アタシ」
 申し訳なさそうに俯くスカーレット君を見て、側のブロックソファに自分も座りながら彼女に座るよう促す。

「いやいや。君だって普段のトレーニングをこなした後なんだから無理もない。あとは大丈夫だから、君はもう戻りたまえ」
「えっ、いいんですか?」
「ああ。君にまで倒れられたら困ってしまうし、デジタル君も悲しむだろう」
「そ……そうですね、分かりました。では、あとはお願いします」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」

 失礼しますという一言と一礼を添えて彼女は出ていった。スカーレット君の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、私はもう一度デジタル君の側に座った。見ると彼女の額にまた一粒汗が浮かんでいたので、また優しく拭き取ってやった。栄養補給もしてもらったし、身体もできる範囲で拭いてあげられたし、冷却ジェルシートも貼れた。私にできることはきっともう無いだろう。

「おやすみ、デジタル君」
 私は眠るデジタル君にそっと挨拶して、布団に潜り込んだ。

 ◆

「おおおはようございます昨日はすみませんありがとうございました」

 私が目を覚ましてベッドから一歩踏み出すと、そこにはデジタル君の土下座があった。

「おはよう」
 この調子だとどうやら体調は良くなったようだ。しかしデジタル君は私の足元で頭を下げたまま動かない。

「顔を上げてくれたまえ、デジタル君。病人がそんなことするものではない」
「ひぇ……?」
「君も分かっているんだろう? ……君が体調を崩したのは私の薬のせいだと」
「……? ……ああ!」

 デジタル君はしばらく考えた後、合点がいったという顔をした。

「ああ〜……いえ、すみません、実は昨日のはただあたしが寒い中無理して走ってたから風邪をひいちゃったんだと思います……むしろご心配かけてずみまぜんっ!!」

 顔を上げていたデジタル君だったが、謝罪の言葉を早口で述べるとまた土下座の体勢に入ってしまった。

「……いいや、君が私のこと——、私の学園での立場を守ろうとしてくれたのは事実じゃないか」

 そう口にしながら自分の言葉に納得させられるような気分だった。

 そうだ、この子は自分が体調を崩していてもなお他のウマ娘のことまで気を回すことができる、類稀なるウマ娘なのだ。私がデジタル君と同じ部屋に暮らせているというのは紛れもなく彼女のおかげであり、そしてそれは感謝すべきことだ。私は必ずデジタル君を大事にしなければならないと——そう直感した。

「デジタル君、いいかい? 君は大事な実験材料なんだ。そんな風に頭を下げないでくれ」
「は……はわぁ……」

 私の言葉を聞いたデジタル君の瞳は潤んでいた。

 そう、デジタル君は私の大事な実験材料だ。それは単に、私の実験に積極的に参加してくれる貴重な人材であるとか、芝ダートどちらも走れる特異な足を持つウマ娘だからという意味だけではない。もはや私にとって、彼女はいなければならない存在となった。

 ベッドの側で彼女が苦しむ様子を見ているときは気付けなかったが、私が他のウマ娘にここまで心を揺さぶられるなんて初めての経験だった。こんなにも誰かを大事に思う気持ちが私にもあるということを、初めて知った。ああデジタル君——君はどこまで私の好奇心に火をつけてくれるんだ! 私はそんなデジタル君を離したくなかったのだ。

「もちろん再発防止策は十分に講じる。君の体調にも一層気を配ろう。だから——良かったら、また実験に付き合ってくれないか?」
「——! も、もちろんですぅ……!」

 デジタル君は感極まったように叫んだ。彼女の返答を聞いて私は微笑む——それを見たデジタル君の顔も緩んでいった。

 守らなければ。彼女が私を守ってくれたように、私は彼女の身を、意志を、そして私達のこの関係を守らなければならない。私が他のウマ娘にここまで強烈な感情を抱くのは初めてだった。今私はただこの感情の存在を認知しただけであり、その名前が何なのかまではまだ分からない。しかしそれも直に分かるだろう——なぜなら、目の前にはこんなにも興味深いサンプルがいるのだから。

 

「……というわけで、君は私にとってかけがえのない存在なのだよ、デジタル君」

 タキオンの話を聞き終えたデジタルは、頬を紅くして顔を逸らした。窓から入った風が二人の髪を緩く撫でる。

「え……へへっ……その節はどうもありがとうございましたぁ……」
「うン? どちらかというとお世話になっているのは私の方だと思うが……」
「いっ、いやいや、むしろタキオンさんのお世話をさせていただくことであたしがお世話になっているというか……!?」
「フッ」
 デジタルの言葉を聞いてタキオンは吹き出した。

「ハハ! ……やっぱり私の同室相手は君しかいないよ」
「——あ、あたしも! あたしもタキオンさん以外のウマ娘ちゃんと暮らすなんて、考えられません!」
「フフ。それでこそデジタル君だ」

 タキオンは立ち上がり、座って話を聞いていたデジタルの手を握る。さっきまで夕陽に照らされて朱かったタキオンの瞳が、紫色に薄く浸かっている。

「デジタル君。私の大事なルームメイトとして、そして実験材料として——これからも末永く頼むよ」
「アッ!! は、はいぃ!! こちらこそ不束かなデジたんですがよろしくお願いいたしましゅぅ!!」
 突然降ってきたタキオンの温もりに、デジタルはあたふたしながらも手を握り返す。お互い、どうかこんな日がずっと続きますようにと密かに願いながら。

 四月二九日。今日はデジタルがタキオンと同じ部屋で暮らし始めた日だ。今日もまた、二人だけの夜と朝がやって来る。