赤穂屋本館

今日、帰りたくない

 闇に揺らぐその栗毛の尾を見た瞬間、間違いないと思った。

 あれはタキオンさんだ。——たとえ繁華街を流れる人混みのうちの一人だったとしても、寮で何年も一緒に暮らしたあたしが間違えるはずなかった。
 数年ぶりに見たタキオンさんは昔よりも髪の毛が伸び放題になっていたものの相変わらず白衣をざっくりと羽織っていて、あたしがタキオンさんの後ろ姿だと断定するにはそれだけで充分なくらいだった。

 その日あたしは、職場で知り合った奇跡のヲタ友と居酒屋でヲタク談義を燃え上がらせていた。学生時代にもヲタ友は何人かいたけれど、その子とは趣味が合い、金銭感覚が合い、そして話が合い——と、何かと合う部分尽くめなのだ。おまけに職場でも〝しごでき〟の女ときた。あたしには彼女と仲良くならない理由がなかった。

 金曜日の晩ということもあり、〝しごでき〟の友達とはかなり長い時間一緒に居酒屋に居座っていた。飲みの席では一切の仕事の話を禁ずる、というのが彼女との約束だ。ヲタクは推しとの約束事に弱い。彼女はもちろんあたしの大切な友人ではあるが、同時に様々な方面でその頼もしさを発揮してくれる。それ故彼女はある意味推しでもあった。その日の話題ももちろんヲタトーク一色だ。先週一緒に行ったライブの感想、次の同人イベントのスケジューリング、今期のアニメの話……そんな他愛のない会話を交わしながら二人で酒を飲んでいるうちに、楽しい時間はあっという間に過ぎていった。

 善良ヲタクは節度を持って遊ぶ。彼女と過ごす時間はいつでも楽しくて素敵だ——故に金曜日の晩は二軒目に寄りそうになってしまうのだが、あたしも彼女もそれぞれの推しに正しくお金を注ぎ込みたいので終電には必ず間に合うように遊ぶのが常だった。

 しかしその日はパリピ達のコールにも負けないくらいアツいヲタク語りを展開させたにも関わらず、あたし達はなかなか別れられず店の前で立ち話をしていた。あたし達の周りには他にも似たようなグループが路上でいくつか輪になっている。「帰りたくない」——言葉にはしなかったが、あの時確かに彼女とは同じ気持ちを共有していたと思う。

 夜が更けるとともに燃え殻みたいな話題をも擦るようになってきて、そろそろ本当にお開きかと思ったその瞬間だった。あたしの横を、タキオンさんが通り過ぎて行ったのだ。いや、冷静になって考えればその時点ではタキオンさんかどうかなんて分からなかったけれど、その時のあたしは絶対にタキオンさんだと思った。突然の出来事で、あたしはタキオンさんと思しき後ろ姿から目が離せなくなった。

 学生時代、愛するウマ娘ちゃん達の中でも畏れ多くも一番お近付きにならせていただいた、タキオンさん。

 タキオンさんとあたしは——こんなこと、口に出すことすらおこがましいことだけれども——確かに特別な関係だったと思う。タキオンさんには多くの友人がいらっしゃったにも関わらず、タキオンさんはこんなどうしようもないヲタクの後輩であるあたしとルームメイトとして一緒に暮らしてくれたのだ。一緒に暮らし始めた頃はなるべくタキオンさんのお手を煩わせぬよう気を遣い続ける毎日を送っていたけれど、何年も一緒に過ごしていくうちにあたしも少しずつタキオンさんに自分のパーソナルな部分を見せるようになっていった。今考えれば〝推し〟にそんなことして良いのかという案件ではあるが、あたしもいつの間にかタキオンさんの持つお人柄にある意味絆されていたのだろう。タキオンさんのそういう部分が天然なのか、それとも計算によるものなのかは数年間の同室生活をもってしても遂に分からなかった。

 タキオンさんは、あたしが桜の蕾を見つけるよりも早く、卒業とともにぱったりと行方を眩ませてしまった。

 タキオンさんはとにかく荷物の多いお方だったので退去作業は難航した。その日はあたしが寮の個室を、カフェさんが旧理科準備室をそれぞれ担当してタキオンさんの私物をひたすら片付け続けた。実験道具や書類以外の私物——洋服や教科書、それにもらったばかりの卒業アルバム——はどのようにしてくれても構わないと言っていたタキオンさんだったが、カフェさんやファインさんといったご友人からのプレゼントは大切にダンボールに収めていたのが印象的だった。

 そうしてあたし達の個室が一際広くなった頃、タキオンさんに卒業後の進路を一応尋ねてはみた。しかし——やはりと言うべきか、タキオンさんは「ウマ娘の可能性を更に追究する」と答えるだけで具体的にどんな進路なのかは明かさなかった。タキオンさんは他のウマ娘ちゃんのようにSNSなどといったファン向けの発信ツールは何も使っていなかったので、卒業後のことについては本当に何も分からなかった。

 いや、正確に言えばタキオンさんの行方は完全にかすみとなったわけではない。あたしはタキオンさんと同室になってすぐLANEを交換していた。それまで他のウマ娘ちゃんとLANEを交換することが滅多になかったあたしは、タキオンさんとLANEを交換するとき緊張と喜びで手が震えまくったのをよく覚えている。共同生活を営んでいた頃は事務連絡を度々交わしていたあたし達だが、卒業した今はもうタキオンさんにLANEをする用事などない。あたしなんかが特に用事もないのに連絡するわけにもいかず、たまにLANEの友達一覧にいる『アグネスタキオン』の名を見ては学生時代に思いを馳せる日々だった。

「……デジタルちゃん?」

 タキオンさんらしき人影に目を奪われたままのあたしの隣で、友達が心配そうに首を傾げた。その声でたちまち世界が元いた繁華街に戻る。そうしている間にもタキオンさんはずかずかと繁華街の人混みを分けて進んでいっていた。せっかく見つけたタキオンさんをまた人混みに返すわけにはいかない。あたしは友達に慌てて頭を下げ、嘆願した。

「す、すみません! ちょっとあのウマ娘ちゃん、あたしの学生の時の知り合いで……少しお話してきてもいいですか?」
「え、そうなの? 私なんかに構わず行ってきなよ、ちょうどお開きだったし」
「本当ですか⁉ あ……ありがとうございます‼」
「うん! お疲れさま!」
「お疲れ様です‼」
 ああ、持つべきは素晴らしい友だ! ——と心の中で叫びながら寛大で優しい彼女に一礼し手を振る。頭を上げると彼女は笑顔で手を振り返してくれていた。こんな失礼な立ち去り方だというのに、これはまた改めて礼を言わなければ、と考えながらあたしはタキオンさんらしき人影のもとへ駆け出した。

 タキオンさんを探しながら緩慢な人の流れを独りで進んでゆく。学園にいた頃は毎日のようにターフの上を走っていたのが、働き始めてからはそれまでの日々が嘘だったのかというくらい走る機会がなくなってしまった。学園の頃の感覚を思い出しながら脚を動かしてゆく。するとその瞬間、先程目にした白衣と揺れる尻尾が見えた。ただでさえそのウマ娘ちゃんは人混みの中でもすぐ分かる白衣姿であった上に、近付いて見ると彼女は両手に多くの荷物を持っていた——それ故、あたしは雑踏の中でもすぐに見分けることができたのだ。

「……タキオンさん!」
 まだ話し掛けるには遠い距離だが思い切ってその名を叫んだ。周りの人達が数人こちらに視線を投げるのが分かる。思えばまだ本人かどうか分からないのに声を掛けるなんてらしくないことだ。それでもその時のあたしは、その白衣がタキオンさんのものだと信じてやまなかったのだ。

 白衣を着たウマ娘ちゃんがあたしの声を聞いてゆっくりと足を止める。彼女が振り返って周りを見渡したそのとき、その青い耳飾りが店のネオンの明かりに照らされるのが見えて、あたしは更に歩幅を広げタキオンさんとの距離を詰めた。

「——タキオンさん!」

 もう一度名前を呼んだ瞬間、あたしとタキオンさんの目が合った。数年ぶりだった。タキオンさんは声の主があたしだと分かると、昔と変わらない微笑みを見せてくれた。

「……おや、デジタル君じゃないか。こんなところでどうしたのかな」

 タキオンさんが、あの頃のようにあたしの顔を覗きこんだ。まだ学生の時よりは落ち着きを持てるようになったとは思うけど、それでも未だにこの仕草は心臓に悪い。大人になってからはなんとか抑えてきたヲタクの鳴き声が、自分の意図しないところで口から漏れてゆく。

「ひゃあっ! え、え、えっと、あたしは友達と飲みに……、タキオンさんは……?」
「私かい? 私はこれさ」
 そう言ってタキオンさんは嬉しそうに両手の荷物を掲げてみせた。袋の中からは、ガサガサという聞き馴染みのある梱包材の擦れるような音がする。

 タキオンさんは学生時代、通販で実験器具を揃えていた。ある日寮に帰ると部屋が大量のダンボールで埋まっている、なんてことも幾度かあった。だが、たまに——曰く偶発性を求めて——こうして自らの足で買い集めに出ていくときもあった。そして両手に沢山の実験器具と薬品を抱えて帰るとすぐ研究室に向かってしまうのだ。これから実験ができると分かっている時のタキオンさんは、いつも嬉しそうな表情を浮かべる。これから親と一緒に遊んでもらえる子供のような幼い笑顔だ。

 繁華街の真ん中に立つあたしの前にあったのは、何もかも学生の時と変わらない光景だった。

 タキオンさんに話し掛けるだけで精一杯で胸を抑えながら話すあたしに対して、タキオンさんはすっかりリラックスしきった様子であたしと対峙している。タキオンさんは卒業してからの年月をものともせずにずっとあの頃のままで今この瞬間まで時を過ごしてきたのだろうか、とあたしは錯覚した。

「それにしてもこんなところで会えるとはねぇ。元気そうで何よりだよ」
「え、えへへ………」

 タキオンさんが目の前にいて、喋ってる。こんな日がまた来ようとは文字通り夢にも思わなかった。普段、ライブでステージに推しが立って踊っているのを見るというのは素直に受け入れられる。つい先週だってライブに行ってきたばかりだ。しかし、今目の前でタキオンさんがあたしと話をしてくれているというのはどうにも信じられなかった。話し掛けたのはあたしの方なので、なんとも失礼な話ではあるが。

「デジタル君は今から帰りかい?」
「ええと……」

 会話をしながら、心臓の鼓動が加速するのを抑えられなかった。こんなに心臓が脈打つのはその先週のライブぶりだ。タキオンさんと話できるのなんて信じられないと思っていたくせに、胸はまるでステージに立っている推しを見ているときのように早鐘を打っている。数年ぶりに会えたタキオンさんを目の前に、あたしは何を話そうか何を聞こうかと無我夢中で頭と口を回していた。

 そしてその時のあたしは何を思ったのか、
「あのっ、タキオンさん、晩ごはんってもう食べられましたか?」
 と尋ねていたのだった。