闇に揺らぐその栗毛の尾を見た瞬間、間違いないと思った。
あれはタキオンさんだ。——たとえ繁華街を流れる人混みのうちの一人だったとしても、寮で何年も一緒に暮らしたあたしが間違えるはずなかった。
数年ぶりに見たタキオンさんは昔よりも髪の毛が伸び放題になっていたものの相変わらず白衣をざっくりと羽織っていて、あたしがタキオンさんの後ろ姿だと断定するにはそれだけで充分なくらいだった。
その日あたしは、職場で知り合った奇跡のヲタ友と居酒屋でヲタク談義を燃え上がらせていた。学生時代にもヲタ友は何人かいたけれど、その子とは趣味が合い、金銭感覚が合い、そして話が合い——と、何かと合う部分尽くめなのだ。おまけに職場でも〝しごでき〟の女ときた。あたしには彼女と仲良くならない理由がなかった。
金曜日の晩ということもあり、〝しごでき〟の友達とはかなり長い時間一緒に居酒屋に居座っていた。飲みの席では一切の仕事の話を禁ずる、というのが彼女との約束だ。ヲタクは推しとの約束事に弱い。彼女はもちろんあたしの大切な友人ではあるが、同時に様々な方面でその頼もしさを発揮してくれる。それ故彼女はある意味推しでもあった。その日の話題ももちろんヲタトーク一色だ。先週一緒に行ったライブの感想、次の同人イベントのスケジューリング、今期のアニメの話……そんな他愛のない会話を交わしながら二人で酒を飲んでいるうちに、楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
善良ヲタクは節度を持って遊ぶ。彼女と過ごす時間はいつでも楽しくて素敵だ——故に金曜日の晩は二軒目に寄りそうになってしまうのだが、あたしも彼女もそれぞれの推しに正しくお金を注ぎ込みたいので終電には必ず間に合うように遊ぶのが常だった。
しかしその日はパリピ達のコールにも負けないくらいアツいヲタク語りを展開させたにも関わらず、あたし達はなかなか別れられず店の前で立ち話をしていた。あたし達の周りには他にも似たようなグループが路上でいくつか輪になっている。「帰りたくない」——言葉にはしなかったが、あの時確かに彼女とは同じ気持ちを共有していたと思う。
夜が更けるとともに燃え殻みたいな話題をも擦るようになってきて、そろそろ本当にお開きかと思ったその瞬間だった。あたしの横を、タキオンさんが通り過ぎて行ったのだ。いや、冷静になって考えればその時点ではタキオンさんかどうかなんて分からなかったけれど、その時のあたしは絶対にタキオンさんだと思った。突然の出来事で、あたしはタキオンさんと思しき後ろ姿から目が離せなくなった。
学生時代、愛するウマ娘ちゃん達の中でも畏れ多くも一番お近付きにならせていただいた、タキオンさん。
タキオンさんとあたしは——こんなこと、口に出すことすらおこがましいことだけれども——確かに特別な関係だったと思う。タキオンさんには多くの友人がいらっしゃったにも関わらず、タキオンさんはこんなどうしようもないヲタクの後輩であるあたしとルームメイトとして一緒に暮らしてくれたのだ。一緒に暮らし始めた頃はなるべくタキオンさんのお手を煩わせぬよう気を遣い続ける毎日を送っていたけれど、何年も一緒に過ごしていくうちにあたしも少しずつタキオンさんに自分のパーソナルな部分を見せるようになっていった。今考えれば〝推し〟にそんなことして良いのかという案件ではあるが、あたしもいつの間にかタキオンさんの持つお人柄にある意味絆されていたのだろう。タキオンさんのそういう部分が天然なのか、それとも計算によるものなのかは数年間の同室生活をもってしても遂に分からなかった。
タキオンさんは、あたしが桜の蕾を見つけるよりも早く、卒業とともにぱったりと行方を眩ませてしまった。
タキオンさんはとにかく荷物の多いお方だったので退去作業は難航した。その日はあたしが寮の個室を、カフェさんが旧理科準備室をそれぞれ担当してタキオンさんの私物をひたすら片付け続けた。実験道具や書類以外の私物——洋服や教科書、それにもらったばかりの卒業アルバム——はどのようにしてくれても構わないと言っていたタキオンさんだったが、カフェさんやファインさんといったご友人からのプレゼントは大切にダンボールに収めていたのが印象的だった。
そうしてあたし達の個室が一際広くなった頃、タキオンさんに卒業後の進路を一応尋ねてはみた。しかし——やはりと言うべきか、タキオンさんは「ウマ娘の可能性を更に追究する」と答えるだけで具体的にどんな進路なのかは明かさなかった。タキオンさんは他のウマ娘ちゃんのようにSNSなどといったファン向けの発信ツールは何も使っていなかったので、卒業後のことについては本当に何も分からなかった。
いや、正確に言えばタキオンさんの行方は完全に霞となったわけではない。あたしはタキオンさんと同室になってすぐLANEを交換していた。それまで他のウマ娘ちゃんとLANEを交換することが滅多になかったあたしは、タキオンさんとLANEを交換するとき緊張と喜びで手が震えまくったのをよく覚えている。共同生活を営んでいた頃は事務連絡を度々交わしていたあたし達だが、卒業した今はもうタキオンさんにLANEをする用事などない。あたしなんかが特に用事もないのに連絡するわけにもいかず、たまにLANEの友達一覧にいる『アグネスタキオン』の名を見ては学生時代に思いを馳せる日々だった。
「……デジタルちゃん?」
タキオンさんらしき人影に目を奪われたままのあたしの隣で、友達が心配そうに首を傾げた。その声でたちまち世界が元いた繁華街に戻る。そうしている間にもタキオンさんはずかずかと繁華街の人混みを分けて進んでいっていた。せっかく見つけたタキオンさんをまた人混みに返すわけにはいかない。あたしは友達に慌てて頭を下げ、嘆願した。
「す、すみません! ちょっとあのウマ娘ちゃん、あたしの学生の時の知り合いで……少しお話してきてもいいですか?」
「え、そうなの? 私なんかに構わず行ってきなよ、ちょうどお開きだったし」
「本当ですか⁉ あ……ありがとうございます‼」
「うん! お疲れさま!」
「お疲れ様です‼」
ああ、持つべきは素晴らしい友だ! ——と心の中で叫びながら寛大で優しい彼女に一礼し手を振る。頭を上げると彼女は笑顔で手を振り返してくれていた。こんな失礼な立ち去り方だというのに、これはまた改めて礼を言わなければ、と考えながらあたしはタキオンさんらしき人影のもとへ駆け出した。
タキオンさんを探しながら緩慢な人の流れを独りで進んでゆく。学園にいた頃は毎日のようにターフの上を走っていたのが、働き始めてからはそれまでの日々が嘘だったのかというくらい走る機会がなくなってしまった。学園の頃の感覚を思い出しながら脚を動かしてゆく。するとその瞬間、先程目にした白衣と揺れる尻尾が見えた。ただでさえそのウマ娘ちゃんは人混みの中でもすぐ分かる白衣姿であった上に、近付いて見ると彼女は両手に多くの荷物を持っていた——それ故、あたしは雑踏の中でもすぐに見分けることができたのだ。
「……タキオンさん!」
まだ話し掛けるには遠い距離だが思い切ってその名を叫んだ。周りの人達が数人こちらに視線を投げるのが分かる。思えばまだ本人かどうか分からないのに声を掛けるなんてらしくないことだ。それでもその時のあたしは、その白衣がタキオンさんのものだと信じてやまなかったのだ。
白衣を着たウマ娘ちゃんがあたしの声を聞いてゆっくりと足を止める。彼女が振り返って周りを見渡したそのとき、その青い耳飾りが店のネオンの明かりに照らされるのが見えて、あたしは更に歩幅を広げタキオンさんとの距離を詰めた。
「——タキオンさん!」
もう一度名前を呼んだ瞬間、あたしとタキオンさんの目が合った。数年ぶりだった。タキオンさんは声の主があたしだと分かると、昔と変わらない微笑みを見せてくれた。
「……おや、デジタル君じゃないか。こんなところでどうしたのかな」
タキオンさんが、あの頃のようにあたしの顔を覗きこんだ。まだ学生の時よりは落ち着きを持てるようになったとは思うけど、それでも未だにこの仕草は心臓に悪い。大人になってからはなんとか抑えてきたヲタクの鳴き声が、自分の意図しないところで口から漏れてゆく。
「ひゃあっ! え、え、えっと、あたしは友達と飲みに……、タキオンさんは……?」
「私かい? 私はこれさ」
そう言ってタキオンさんは嬉しそうに両手の荷物を掲げてみせた。袋の中からは、ガサガサという聞き馴染みのある梱包材の擦れるような音がする。
タキオンさんは学生時代、通販で実験器具を揃えていた。ある日寮に帰ると部屋が大量のダンボールで埋まっている、なんてことも幾度かあった。だが、たまに——曰く偶発性を求めて——こうして自らの足で買い集めに出ていくときもあった。そして両手に沢山の実験器具と薬品を抱えて帰るとすぐ研究室に向かってしまうのだ。これから実験ができると分かっている時のタキオンさんは、いつも嬉しそうな表情を浮かべる。これから親と一緒に遊んでもらえる子供のような幼い笑顔だ。
繁華街の真ん中に立つあたしの前にあったのは、何もかも学生の時と変わらない光景だった。
タキオンさんに話し掛けるだけで精一杯で胸を抑えながら話すあたしに対して、タキオンさんはすっかりリラックスしきった様子であたしと対峙している。タキオンさんは卒業してからの年月をものともせずにずっとあの頃のままで今この瞬間まで時を過ごしてきたのだろうか、とあたしは錯覚した。
「それにしてもこんなところで会えるとはねぇ。元気そうで何よりだよ」
「え、えへへ………」
タキオンさんが目の前にいて、喋ってる。こんな日がまた来ようとは文字通り夢にも思わなかった。普段、ライブでステージに推しが立って踊っているのを見るというのは素直に受け入れられる。つい先週だってライブに行ってきたばかりだ。しかし、今目の前でタキオンさんがあたしと話をしてくれているというのはどうにも信じられなかった。話し掛けたのはあたしの方なので、なんとも失礼な話ではあるが。
「デジタル君は今から帰りかい?」
「ええと……」
会話をしながら、心臓の鼓動が加速するのを抑えられなかった。こんなに心臓が脈打つのはその先週のライブぶりだ。タキオンさんと話できるのなんて信じられないと思っていたくせに、胸はまるでステージに立っている推しを見ているときのように早鐘を打っている。数年ぶりに会えたタキオンさんを目の前に、あたしは何を話そうか何を聞こうかと無我夢中で頭と口を回していた。
そしてその時のあたしは何を思ったのか、
「あのっ、タキオンさん、晩ごはんってもう食べられましたか?」
と尋ねていたのだった。
もう二軒目の時間帯も中盤に差し掛かっていたにも関わらず、店の中は沢山の人で賑わっていた。タキオンさんはさして食べたいものがないとのことだったので、とりあえず目の前にあった街中によくあるタイプの焼き鳥屋さんに転がり込んだのだった。
落ち着いて考えるとこんな金曜日の晩に焼き鳥屋の席が空いているわけがない。そんな心配を抱えながら出迎えてくれた店員に二人だと伝えると、彼はあっさりとあたし達を席まで案内してくれた。店内を見渡すとどうやらあたし達よりも一回り若い大学生の子達がもう帰り始めているようだ。それでもすっかり温まりきった店の熱気は冷める様子がなく、むしろ外からやってきたばかりのあたし達の理性を浮き彫りにするかのようにこの空間を満たしていた。
タキオンさんとあたしは店の入り口からは離れている奥まったテーブル席に案内された。もうすっかり出来上がった店の雰囲気に圧倒されかけていたあたしは、まるで離島かのように小ぢんまりとしたその席を見てちょっとほっとした。適当に入ったお店とはいえ落ち着けそうな席にありつけたのは幸運だ。タキオンさんとあたしは向かい合わせの形で席に着いた。
タキオンさんは荷物を下ろして席に着くと、いつもの落ち着いた口調であたしに尋ねた。
「デジタル君は何を頼むんだい?」
そう言われて軽くメニューに目を通すと、もうすっかり見慣れたお酒の名前がずらりと並んでいた。初めだし、とりあえず無難なのを頼もう。
「あたしはピーチウーロンにしようかと……タキオンさんは?」
「そうだねぇ……、とりあえず料理を頂きたいからウーロン茶にしておこうか」
「えっ——」
そう言ってタキオンさんは店員を呼ぶと、慣れた様子で飲み物、まるごとニンジン、ポテトサラダ——ついでにあたしのお酒も注文してくれた。あたしはタキオンさんも飲むものだとばかり思っていてついお酒を頼んでしまったのだ。
(あああ……タキオンさんが飲まないならあたしもソフトドリンクにしたら良かった)
早速やってしまった。友達と入った前の店で沢山食べて満腹だったのもあるけど、先輩であるタキオンさんの前で一人だけお酒を頼んでしまうだなんて……。
「デジタル君、料理はいいのかい?」
「ひゃ! いいい、いえ、あたしはもう食べたのでぇっ」
「そうかい? では、以上で」
あたしは内心で頭を抱えていたのだが、タキオンさんはそんなあたしのことなど気にも留めぬ様子だ。注文を聞いてくれた店員さんは高らかな「ありがとうございます」の声を上げ、「ピーチウーロン、ウーロン茶イッチョー……」と言いながら厨房に消えていった。
「ありがとうございます、タキオンさん」
「ああ」
店員が去ってしまうと、あたし達は自然と沈黙に包まれてしまった。騒がしいお店の中で、あたし達二人の空間だけが切り取られているかのようだ。顔を上げるとそこにタキオンさんのご尊顔がある。あたしはまだ顔を上げる勇気がなくて、慌ててこの沈黙を埋めてくれる話題を探した。さっき注文をしてくれたタキオンさんの横顔を思い出し、そういえばと質問を切り出す。
「タキオンさん、こういうお店はよく来られるんですか?」
正直、タキオンさんが騒がしい店内でも躊躇なく店員を呼び付けてスラスラと注文をこなしていく姿には違和感があった。それらの動作そのものはタキオンさんにとって何ら難しいものではないだろうけれど、学園にいた頃から他のウマ娘ちゃんとはどこか俗世離れした雰囲気があったタキオンさんが、こうして居酒屋で難なく注文する姿は何となく想像できなかったのだ。
「ああ。教授がよく連れてきてくれるものでね」
「え、タキオンさん学生さんなんですか」
「そうだよ。大学院生さ」
タキオンさんは口元を緩ませてそう答えた。
あたし達がトレセン学園を卒業して数年経った今、タキオンさんが大学院で研究に取り組んでいるというのは全くおかしくないことだ。あたしだって、もう就職して働いている。
「……そうなんですね。何の研究をされているんですか?」
「今は……、ウマ娘と人間の脊髄反射反応の比較で論文を書いているところさ」
「——お待たせしましたぁー、ピーチウーロンとウーロン茶です」
タキオンさんが作り上げたお話のリズムを掻き乱すかのように店員の声が飛んできた。ドン、ドン、と鈍い音を立ててグラスが次々と置かれてゆく。冷えたグラスには結露した水滴が募って、汗のように水が垂れていた。
「あ……じゃあとりあえず乾杯しましょうか」
「そうだね」
「では——乾杯!」
音頭とともにグラスの取っ手を握ると思ったより冷気が染み込んでいて、ぞく、と少しだけ背筋が震えた。
タキオンさんのグラスよりも飲み口を少し下げて軽くぶつけると、カンと軽い音があたし達のテーブルを賑わせた。そのままピーチウーロンを口まで運ぶと桃の爽やかな香りが身体の中を抜けていった——今日二度目のアルコールも一緒に。
タキオンさんの方をちらりと見遣ると、タキオンさんはかつて部屋で紅茶を飲んでいたときのように上品な仕草でウーロン茶に口を付けていた。ゴクゴクととにかく喉を潤すのではなく、少しずつ口に入れてその香りを味わう——それが大衆居酒屋のソフトドリンクであろうと。飲み屋さんでグラスに入った飲み物をここまで美しく飲めるのか——〝しごでき〟の友達も上品に飲みはするけれど、タキオンさんからは彼女にない気品が溢れていた。他には学生のときの覚えたてで雑な飲み方や、会社で上司に気を遣いながら飲む特に味のしないお酒しか知らなかったあたしは、そのお上品なグラス捌きに惚れ惚れしていた。
その後間もなくタキオンさんが頼んだ料理も来て、数年ぶりの二人の晩ごはん会が始まった。あたしは数時間前に晩ごはんを食べていたので、料理はタキオンさんが食べ、お酒はあたしが飲み——という形でこのささやかな同窓会は進んだ。
店の中に満ちる笑い声や話し声が緊張を自然にほぐし、やがてあたし達は昔話に花を咲かせた。と言ってもあたし達の共通の話題といえば、レースの思い出、学園の行事、寮での出来事や、タキオンさんとあたしとトレーナーさんの三人で一緒にお出かけしたことくらいしかなかった——あたしとタキオンさんは、趣味も行動パターンも、考え方の癖も何もかも違うのだ。それでも話のタネは尽きなかった。数年間共同生活を営んだ仲となると、思い出も沢山あるものだ。
あたし達の話が温まってくるにつれて、お店の中の声も徐々に弾んできているようだった。大きな話し声に混じって時折誰かが手を叩いて爆笑している音が聞こえる。タキオンさんはこんな騒がしいお店は苦手なんじゃないかと想像していたけれど、目の前のタキオンさんが微笑みながら話をしてくれるのを見て、その想像も勝手なものだと気付いた。
タキオンさんが注文した料理もどんどん無くなってゆき、あたし達が入店してからもうそろそろ二時間は経っただろうか。
タキオンさんは初めのウーロン茶を飲み終えたあと、「折角だから」とお酒を頼まれた。タキオンさんは果実酒がお気に入りのようで、桃や杏のお酒を注文してはやはりお上品に召し上がっていた。タキオンさんのご好意であたしもお料理を少しずつ頂いてはいたものの、これで二軒目であったことに加えて大して食べずにお酒ばかりを口に入れていたので、いつの間にやらあたしはかなり気持ち良く酔ってしまっていた。
「そのときタキオンさん、なんて言ったか覚えてますぅ? ——『私は実験に失敗するつもりはない』!」
タキオンさんの真似にはちょっと自信があった。あたしは指をちょうど銃のような形にして、腕を横に勢い良く広げながらタキオンさんの声真似をしてみせた。いつもの早口ヲタクを封じて自信たっぷりな風に言うのがコツだった。
「ハハハ! すごいねぇ君は、よくそんなことまで覚えているね」
「あたり前ですよぉ! うふふ、なんてったって、同室だったんですからぁ」
「フフ。そうだね」
目の前にいるタキオンさんが笑ってくれているのが嬉しくて、あたしもつられて目を細める。あたしがテーブルに突っ伏すと目の前にはもう空のグラスがあって、タキオンさんのお顔がぐにゃぐにゃに曲がって見えた。グラスを滴る水滴もぐにゃりと流れ落ちている。別に何の変哲もないただのグラスなのに向こうが歪んで見えるのが不思議で面白くて、あたしはタキオンさんの笑みが落ち着いてもなおへらへらとだらしなく笑い続けていた。
「えへへぇ……」
「デジタル君。大丈夫かい」
「ふふ、大丈夫ですぅ、ちょっとふわふわしてきただけですから~」
「大丈夫ではないじゃないか」
そう言うと、タキオンさんはあたしが敢えて見ないようにしていた腕時計をいとも容易く覗き込んでみせた。白衣の下から覗いたタキオンさんの腕時計はどうやらスマートウォッチのようで、黒い液晶がつやつやと輝いている。
「ほら、そろそろ終電の時間だ。お開きにしよう、デジタル君」
タキオンさんが腕時計の画面をこちらに見せてくれたけど、体も起こさずに顎を突き出して見る振りをした。その時のあたしには、タキオンさんの着けている腕時計がすごく残酷なものに思えた。きっと今も画面の中の秒針が一秒、また一秒と終電へのカウントダウンを刻んでいるに違いない、と身勝手な想像さえした。
(せっかく久しぶりに会えたのに、どうしてタキオンさんは帰ろうとするんだろう)
あたしはなんだかふられたような気持ちになって、顔を上げてタキオンさんの瞳を覗き込んだ。脳が急な高度上昇に耐え切れず、視界がぐわんと揺れる。辛うじて耐えた視覚がタキオンさんのお顔を捉えた。ともすれば落っこちてしまいそうな紅色が、あたしを誘っている。
あたしはもう、何も怖くなかった。
昔から守ってきたヲタクの鉄則、『触れない、ねだらない、邪魔しない』。限界まで思考能力が融かされた状態で、その鉄則を思い出す余裕などその時のあたしには一つもなかった。今あたしを制するものは何もない。そのまま口から欲が溢れてゆく。
「……ねぇ、嫌ですよ」
「……何?」
「きょう、あたし帰りたくないんです。……終電なんか、なくなっちゃえばいいのに」
あたしのそれまでの人生で一番安いセリフだった。言いながら何て事を口走ってるんだと思ったは思ったけれど、何もかもどうでも良かった。人は酒に酔うと、その人間性は皆等しく陳腐なものに収束していくのかもしれない。普段は慎ましく生きることを心がけているあたしだって、アルコールに理性を奪われるだけでこの様なのだ。
ぐにゃぐにゃのタキオンさんがお口をぽかんと開けているのを見ながら、あたしはゆっくりと目を閉じた——というより、瞼が落ちてきたという表現の方が近かった。
ふと気が付くと全身がなんだか心地良いものに包まれていて、いつの間にか布団に入っていたのだと分かった。身体を包んでくれている布は程よく柔らかくて体に馴染む。昨日のことを思い出そうとしても頭に靄が掛かっているようで、いつ帰ってきたのかなぁとあたしは夢うつつの中で考えていた。しばらく足先で柔らかい布の感覚を楽しんでいると、聞き慣れたドアの音と足音が聞こえるのを感じてハッと目を開けた。
「おや。目を覚ましたかい」
そこは住み始めて間もなく二年になるあたしのワンルーム、そして目の前にはコップを持ったタキオンさんがいた。
一体どれくらい眠っていたのだろう? 慌てて窓の方を見やったが、日は差していなかった。ということは太陽の昇っている時間ではない。それはわかるけれど、今は一体何時なのだろう。その時のあたしの中に、頼れるような時間感覚は一つも残されていなかった。
「とりあえずこれを飲みたまえ。君はお酒しか飲んでいなかったからきっと水分不足だろう」
よく考えたらタキオンさんがどうしてあたしの部屋にいるのだろう。タキオンさんがあたしの部屋に来るのは初めてだというのに、全く違和感無く部屋に馴染んでいた。あらゆる状況がうまく呑み込めなくて、体を起こしてとりあえず渡された水をゴクゴクと飲む。きれいな液体が食道を流れるのを感じた。
サラサラと流れてゆく水が頭の中の靄を取り去って、思考を明瞭にしていくのが分かる。……そうして意識がはっきりしてくるとともに昨夜の記憶が蘇ってきて、あたしはなんだか取り返しのつかないことをやってしまったような気がしてきた。何者かに心臓をぐうっと掴まれているかのような感覚に陥って、コップを持つ指先が小さく震える。
「あ、あのっ、あたし、もしかしてタキオンさんが運んでくださったんですか」
「そうさ。もっとも、私は荷物があったからタクシーに乗せてくれたのはあの店の女性店員だけどね」
タキオンさんはそう言って、震えるあたしの手から空になったコップを回収してくれた。
あたしの心臓を掴む何者かの手の力が更に強くなって、全身に血が激しく巡り始めるのが分かる。
——ああ、なんということだろうか。お酒を飲めるようになってもう数年になるけれど、こんなに派手に失敗したのは初めてだ。飲みすぎても精々足元がふらついたり友達に絡んだり程度のものだった。よりにもよって尊敬するタキオンさんにご迷惑を掛けてしまうなんて……ウマ娘ちゃんのヲタクとして、あたしにはもう死しかないと思った。ウマ娘ちゃんに迷惑を掛ける厄介ヲタクには死あるのみなのだ。
「すみっ、すみませんっ、お見苦しい姿を見せた挙句あたしの世話までさせてしまって」
「ううン。君をあのまま放っておけばどうなるか分からなかったし、私はどうせ明日休みの日だからね。君は?」
自分の状態を『どうなるか分からなかった』と表現されてしまったことに恥じ入りつつ、今後の予定を思い出す。考え始めると、頭では分かっているのになんだか気を失っている間に何日も超越してしまったような気がした。携帯の画面を点けると時刻は深夜二時。日付はもちろん超越なんかしていない。ロック画面には明日の数字が冷静に表示されていた。
「あたしも、お休みです」
「そうか」
そう言うと、タキオンさんはベッドの上で上体を起こしたままのあたしの側に座った。
「今夜は君の家に泊まってもいいかい?」
「ふぇっ⁉」
突然の質問にたじろぐあたしを見て、タキオンさんは不思議そうな顔でこう尋ねた。
「ン? 学生のときは毎日一緒の部屋で眠っていたじゃないか。いいだろう?」
「ひぇ、あ、そんな、あたしなんかの部屋で……」
共用の部屋で眠った学生時代と、自分一人だけが住んでいる部屋でタキオンさんを寝させるのでは全く違う、というのがあたしの言い分だった。学生時代についた癖であたしは卒業してからも掃除はできる限りするように心がけていたので一応部屋は汚くない、と思う。だがタキオンさんが泊まるとなると話は別だ。ああ部屋着がない、タオルがない、歯ブラシがない、……と考えを巡らせていると——
「ン? ……今日は帰りたくない、と言ったのは誰だったかな」
タキオンさんの深い目があたしを捉えた。その目をあたしは何度も見たことがある——相手をいともたやすく絡めとってしまう、そんな目。これまで一体どのくらいの人がその目に魅入られてきたことか、あたしには想像もつかない。
「……はい」
あたしは、素直にタキオンさんの瞳に降参することにした。
さあー、と軽い雨のような音が聞こえる。意識してはいけないと思えば思うほどそのことを意識してしまうのは、人の性だろう。
タキオンさんがたった今シャワーを浴びているということを意識しないようにするために、あたしは部屋を片付けたりクッションを整えたりしていた。物を片付けていくと確かに部屋の見た目はスッキリしていく。でもどれだけ部屋を綺麗にしてもどこか手持ち無沙汰な気持ちが宙に浮かんで、あたしはなかなか落ち着けなかった。きっとあたしの心の中の浮ついた思いはどうしたって片付けることはできないのだろう。
あの後、あたし達は二人でコンビニまで出てタキオンさんの次の日の下着類を買った——いや、買わせていただいた。それと必要な歯ブラシやタオルも買い足した。あとは小さなお菓子を少しずつ。深夜にコンビニに行くのは初めてではなかったけれど、学園にいた頃はそんなことは勿論できなかったし、そもそもタキオンさんと深夜に一緒に行動するなんてことは滅多になかった。少しひやっとするような夜風の中、あたしはお酒のそれとはまた違う高揚感に一人で包まれていた。
タキオンさんと久しぶりに会えた上に一緒に外に出たり家で夜を過ごしたりできるという事実を、あたしは隣で歩いてくれるタキオンさんを見てもなお信じられなかった。折角こうしてまた出会うことができたのだ、学生の頃の推しとファンという関係性を超えた別の——もっと気軽に話せて、それでいて距離の近い……そう、友人のような関係性になれたらいいな、なんてあたしは考えそうになった——
……だけど、タキオンさんはどう思っているのだろう。あたしはタキオンさんと久しぶりに会えて心の底から嬉しいけど、やっぱりタキオンさんにとってはあたしなんか沢山いるご友人や知人のうちの一人に過ぎないのではないか。それなら、一ヲタクであるあたしがタキオンさんの学生としての貴重な時間を徒らに奪うわけにはいかない。そう考えることで、あたしはタキオンさんに対する浮ついた気持ちを打ち消そうとしていた。やはりあたしはモブとして生きてゆかねばならないのだ。
「デジタル君、上がったよ」
「わひゃっ」
突然の声に尻尾の毛が逆立つ。声の方を振り向くと、あたしの部屋着を着た濡れ髪の——という、罪深い修飾語の付いたタキオンさんが立っていた。服のサイズが合っていないのか、お腹から黒い肌着が僅かに見え隠れしている。あたしとタキオンさんは体格が結構違うので部屋着を貸すことができるだろうかと少し悩んだが、やはり少し丈が足りなかったようだ。タキオンさんの前髪は水分を吸って更に伸びたからか顔の横に寄せられ、伸ばしっぱなしの後ろ髪が水気を帯びて艷やかに輝いていた。
まずい、これ以上見てはあたしが非常にまずい。あたしは目を固く瞑りながら用意していたドライヤーを手渡した。
「ど……‼ ドライヤー、これドライヤーでしゅっ‼」
「おや。ありがとう」
暗闇の視界の中、手にあったドライヤーの重みがふっと軽くなる。タキオンさんは寮ではドライヤーを使っていなかったような……という記憶が一瞬よぎったが、タキオンさんの女神の如き湯上がり姿にいても立ってもいられなかったあたしは慌てて浴室に逃げ込んだ。
浴室のドアをガラガラと開けると、床のタイルには水滴が付いていた。普段一人暮らしだと、こんな風に水滴が既に付いていることはないので少し落ち着かない。タキオンさんが使われる前に軽く掃除はさせてもらったけど、汚いとか思われなかっただろうか……。
そんな不安な気持ちを抱えながらシャワーの蛇口を捻ると、既に温かくなったお湯があたしを柔らかく包み始めた。手にシャンプーを馴染ませて頭を洗い始めると、街でタキオンさんを見つけたときから今までの映像が思い起こされる。
数年ぶりに見た長い白衣の裾と栗毛の尾……あの時タキオンさんを見つけたときの自分の心臓の音が鮮明に蘇る。思えばタキオンさんを見つけてからのあたしは、今まででは考えられないくらい積極的だった。人混みの中から手を伸ばして自ら話しかけた上に食事に誘うだなんて、学生時代の自分に聞かせてやったらどんな顔をするだろうか。少し考えてみたけど、昔のあたしならきっとタキオンさんの跡をそっとつけていただろう。……そう考えると話し掛けて良かったかもしれない。きっとあたし達二人を長く隔てていた時間が、あたしの背中を押してくれたのだろう。
タキオンさんに多大なご迷惑は掛けてしまったけれど、会えたこと自体は本当に良かったと思う。数年ぶりに会ったとしても学生時代の続きかのように談笑して昔の思い出話もできたのは、やっぱりタキオンさんの持つ魅力のお陰なのかなぁと思った。タキオンさんとお話していると、なんだかあの学園のセーラー服を纏っていたときのことを思い出せるかのようなのだ。
もう一度お湯を出してシャンプーを洗い流すと、白くて細かい泡がサラサラと流れてゆく。心地良い温度に包まれて、心なしか頭がスッキリしたような気がした。
「さて、そろそろ寝ようか」
すっかり髪の毛が乾いてふわふわの髪に戻ったタキオンさんが声を掛ける。湯上がり直後のスッキリした姿とは対象的に、タキオンさんの髪はふわふわしてなんだか柔らかそうだった。学生の頃よりも長さが伸びたからか一層その印象が強い。
あたしがシャワーを浴びていた時からゴーッという音が聞こえていたのでまさかとは思っていたが、なんとタキオンさんはドライヤーを使って髪の毛を乾かしていたのだ。寝る間を惜しんで研究に全てを投資していたタキオンさんがこんな風にドライヤーで髪の毛を乾かす姿を、あたしは初めて見た。しかもタキオンさんに尋ねたところ、髪の毛を乾かしたのはあたしの家の枕を濡らすわけにはいかなかったからだという。ああ——なんてなんて尊いお方なのだろうかとあたしは天にも昇るような気持ちだった。
そんなことを、あたしは寝る前にタキオンさんと一緒にちょっとお菓子を食べたとき、歯磨きをしたとき、布団を敷いたとき——タキオンさんの乾いた髪と尻尾が目に入るたびに思い出した。そしてそれは、たった今タキオンさんに話し掛けられたときも例外ではなかった。慌ててタキオンさんのために用意した布団に視線を移す。
「はっ……はい! タキオンさんはこちらにっ」
と、あたしは以前ヲタ友とお泊り応援上演会をしたときに買った客人用の布団にタキオンさんを案内した。タキオンさんが来ると分かっていればこれも勿論丁寧に洗ってしっかりお日様にも当てていたのだが、こればかりは仕方がない。タキオンさんもあたしが普段使っているベッドよりも新品に近いお布団の方が心地よく眠れるだろう。事前に準備できなかったことは心苦しかったが、少し前に一回干したので良しと自らを納得させた。
あたしに案内されたタキオンさんは布団の側で不思議そうにそれを見つめている。
「ほう? 一人暮らしなのに客人用の布団を持っているのかい?」
「ええ! 友達とお泊り会をするときに買ったんです!」
「ふぅン……」
と悩まし気な溜息を吐いて、タキオンさんは何やらあたしの表情をじっと見つめている。あたしには心なしかタキオンさんの眉が下がっているように見えた。何がタキオンさんのお顔を曇らせたのか、あたしはその原因を探すべく必死に脳内を検索する。
「ど、どうかされました? あっ、これではまだあたしは寝てないですよ——」
あたしの言葉を遮って、タキオンさんは首を振った。
「いいや。ただ、帰りたくないなんて言っていた君が、別の布団で満足できるのかどうか疑問でね」
「えっ——」
そう言うや否や、タキオンさんは側に立っていたあたしの手を引いて自分の方へ引き寄せた。
「へぶっ⁉️」
突然の重力に抵抗できず、あたしはなす術無くバランスを崩した。あたし達の身体が布団にもつれ込み、体が布団越しに床に叩きつけられる。はっと気が付くと、布団の上に倒れ込んだあたしの隣ではタキオンさんがほぼゼロ距離で同じく横になっていた。タキオンさんに手を引かれて倒れ込んだあたしは、同じ一つの布団の上にタキオンさんとちょうど向かい合わせで横になる形になったのだ。タキオンさんとあたしのまつ毛は今にも触れ合いそうな距離だ。
どうしよう。完全に理解の及ばないことが起こっている。
他人、ましてやウマ娘ちゃんの身体と密着したことがこれまでほとんどなかったあたしは、突然の出来事に混乱していた。数時間前あたしはタキオンさんの背中を追うだけで精一杯だったのに、何故か今あたしの目の前にはタキオンさんの瞳がある。あたしが逃げるようにして僅かに顔を俯かせると、タキオンさんはそのままあたしを抱き寄せた——背中に食い込むタキオンさんの腕の感触に、あたしの尻尾はしっかり反応してその毛を逆立たせた。タキオンさんがあたしの耳元に口を寄せると、あたしの中にタキオンさんの吐息と心臓の鼓動が流れ込むかのようだ。
「お望み通り今日は帰さないよ、デジタル君。シャワーも借りてしまったし、このまま寝てしまおうかな」
その言葉に、あたしの心臓はドクンと跳ね上がった。
「ひぇっ……‼️」
「フフ、その反応。本当に君は変わらないね」
「ひ……ひぃ……」
いつもの自分の部屋のはずなのに、いつもと違う布団の中でタキオンさんに抱かれているせいで全く知らない部屋にいるかのようだ。柔らかい体温が身体にぴっとりとくっついているのを感じる。身体中に熱が巡って今までにないくらい全身が火照っているようだ。
「デジタル君。……今日は、君に会えてよかった」
「へっ」
予想外の言葉に、思わず気の抜けた声が出た。
「私を見つけてくれてありがとう、デジタル君」
その瞬間、背中を包むタキオンさんの腕の力が少しだけ強くなったのをあたしは確かに感じた。恐る恐る顔を上げると、タキオンさんは穏やかな表情で目を閉じていた。
(見つけて、くれて……)
あたしがその言葉の意味を探っている間に、そのままタキオンさんは腕の力を緩めてすぐに規則正しい呼吸を始めてしまった。タキオンさんの寝息を聞いていると、やはり身体の方も安心してしまうのかあたしも急に疲れを覚えて瞼が重くなってきた。改めてお買い物帰りにこんなに長い時間付き合わせてしまったことを反省しつつ、あたしもタキオンさんの腕の中でそっと目を閉じた。
タキオンさんからは、学園の頃と変わらず仄かに紅茶の香りがした。
明くる日、太陽が昇るとともにあたしの目はすぐさま開いた。人生史上最高のぱっちりさだった。
(……ひゃわっ⁉️)
目を開けると、目の前でタキオンさんが眠っていた。……そうだ、昨日はタキオンさんと——。即座に昨夜の出来事が怒涛の如く頭の中で再生される。色々ありすぎて、まるで昨日会社に行って普段通り仕事をしたなんてまるで信じられなかった。
目の前で眠るタキオンさんを起こさないように枕の側の携帯に手を伸ばすと、時刻はもう九時過ぎだった。休みの日も平日の朝と同じくらいの時間に起きてしまうあたしはその数字に軽く驚きを覚えた。きっとタキオンさんのお身体にも負担を掛けてしまったに違いない。あたしはそっと布団から這い出て食パンをトースターに放り込み、お湯を沸かし始めた。
学生時代からなんとなく銘柄を変える気にならず、大人になってもタキオンさんが好きな紅茶をずっと買っていた自分を褒め称えながら、あたしは記憶を頼りにタキオンさんの好きな温度で紅茶を淹れた。やがて豊かな茶葉の香りが部屋を満たし、あたしのワンルームに学園の寮の部屋が蘇った。
「ん……デジタル君……」
淹れ始めてしばらくすると、後ろからタキオンさんの眠たげな声が聞こえてきた。
「おはようございます、タキオンさん」
あたしが声を掛けると、タキオンさんが潜っている布団がもぞりと動いた。昨夜あたしと二人で無理矢理寝たせいか、布団の裾からは尻尾の先が軽くはみ出ている。
「…………もしかして、紅茶を……?」
「はい! 久しぶりなので、お口に合うかわかりませんが」
あたしがちょうど出来上がったティーカップをタキオンさんのもとに持っていくと、タキオンさんは布団の中で上体を起こしてそれを受け取った。タキオンさんが一口啜ると、頬にみるみるうちに紅が灯る。
「ン……、美味しいよ、デジタル君」
「ほあ……! 良かったですぅ……!」
タキオンさんにお茶の味を褒められ、胸に幸せが滲む。寝起きだからか紅茶を飲むタキオンさんの目と口元は緩み切り、耳は気持ち良さそうにぴくぴくと動いていた。朝からタキオンさんのこんな姿を見られるだなんて何年ぶりだろうか、とあたしは一人幸せを噛みしめ尻尾を揺らしていた。
それからあたし達は何年かぶりにテーブルを囲んで朝食を摂った。
南向きの窓からは柔らかく朝日が射し込み、アップルジャムの塗られたトーストに光の粒を乗せている。いつものスーパーで買う五枚切りの食パンを、オーブントースターで焼いた何の変哲もないトースト。タキオンさんとあたしは各々のペースで静かにトーストを一口ずつかじっていった。
タキオンさんに昨日これ以上ないくらいわがままを聞いてもらった以上、もうタキオンさんが帰るのを引き止めるつもりはなかった。タキオンさんはあたしなんかよりももっと忙しい大学院生なのだ。きっと、今日も帰ったらまた文献や論文と向き合うに違いない。どこにでもいる会社員とよりも、同じ院生や教授と接するほうがタキオンさんの身になるだろう。
そもそも昨日は酔っていたからあんなことをしたのであって、普段は絶対にやらないと言い切ることができる。ウマ娘ちゃんのヲタクを名乗る者として、あたしはウマ娘ちゃんを見守る優秀な『壁』に徹さなければならないのだ。ウマ娘ちゃんに対して浮ついた心を持ってはいけない。
(でも——)
心の底では、タキオンさんともっと仲良くなりたいという気持ちはやっぱりどうしても拭えなかった。タキオンさんともっと近付きたい——でもただでさえあたしなんかが近付くべきではないのに、あんなご迷惑を掛けたあとにだなんておこがましいにも程がある。……そう、あたしは善良ヲタクを目指して徳を積んでいる最中だったのだ。昨日と今日でタキオンさんとお話できただけで奇跡に近い出来事だ。これであたし達はこれまで通り——あたしはしがない会社員、タキオンさんは研究熱心な大学院生としての生活に戻るべきだと思った。
「ごちそうさま」
タキオンさんが空になった皿の前で手を合わせる。その言葉で我に返って手元を見ると、あたしはトーストをまだ半分しか食べていなかったことに気付いた。トーストは急いで口に詰め込んだ。
お昼からタキオンさんは大学図書館に行きたいとのことだったので、少し休んでお昼前には家を出るということになった。土曜日の朝特有の気の抜けたようなテレビ番組の音をBGMにしながら、タキオンさんは髪の毛を梳かしている。あたしはそれを横目に洗い物や洗濯を進めていた。食器を洗っているときに横でタキオンさんが身支度をしているのも、ご迷惑にならないようにとなるべく見ないようにしていた。
朝のニュース番組が軒並みぐだぐだと終わりを迎えて、お昼の情報番組の時間帯に差し掛かった頃だろうか。
「さて、私はそろそろ出るとするよ」
そう言って、タキオンさんは仕上げに白衣を羽織った。
「分かりましたっ」
両手に荷物を抱えた栗毛の尻尾が玄関のドアに向かう。あたしはその後をゆっくりと追った。腕が揺れるたびにガサガサと梱包材の擦れるような音が廊下に響く。
両手が塞がったタキオンさんの代わりに扉を開けようと、あたしがタキオンさんの前に出てドアノブに手を掛けたところで後ろから話しかけられた。
「デジタル君、昨日今日と色々世話になったね。ありがとう」
「い、いえっ、それはこっちのセリフでっ」
咄嗟のことに振り返る余裕がなく、顔を合わせずに答えた。自分の耳がびくびく震えるのが分かる。
——『よければ、また。』
いつか来る別れの時に言おう、と思っていたこの言葉。今すぐ後ろを振り向いて伝えればいいだけなのに。こんなに短い言葉なのに、どれだけ言おうとしてもドアノブに掛けた右手にしか力が入らなかった。
詰まった言葉を喉の奥に押しやった瞬間、タキオンさんがあたしの耳元で囁いた。
「また、一緒に飲もう」
タキオンさんは確かにそう言ったのだ。
それでもあたしは信じられなくて思わず声の方を振り向くと、タキオンさんはあたしの右手をするりと奪って代わりに扉を開けてしまった。呆然とするあたしをよそに、扉の向こうでタキオンさんは不敵な笑みを浮かべて手を振りながら階段を降りていく。状況についていけず、あたしはタキオンさんの後ろ姿を視界に入れるのが精一杯だった。そうしている間にも無慈悲に扉の重い音が放り投げられる。あたしはその音を耳にしてもなお、しばらくの間現実に戻ってこられなかった。
……『また、一緒に飲もう』? タキオンさんが、あたしと?
あたしはこの二日間、タキオンさんにご迷惑ばかり掛けたと思っていた。街で歩いているところをいきなり話し掛けられて、食事に誘われた挙句泥酔されて、深夜まで付き合わされ知らない家にいきなり泊まらされて、こんなのもう会ってもらえなくても仕方がないようなことばかりだったのに。
また一緒に飲もうということはもしかして、もしかしてだけれどまた会ってもらえるのだろうか——、しかも、お酒の席で。
「う……うそ……」
顔に体温が集中するのが分かる。
いや違う、甘え上手なタキオンさんのことだから他の人にも言っているだろうと即座に思い直した。もうあたしもタキオンさんも大人なのだ、きっと社交辞令で言ってくれたに違いない。あたしだってこれまで誰に何回「またご飯行きましょう」なんて言ったかなんて分からない。だからこれはきっと、あたしだけに言われたことではないのだ。
……でも。
少しだけ、ほんの少しだけ……期待してもいいのだろうか。
あたしの思い上がりでなければ、きっとタキオンさんはあたしと会えて嬉しかったのだと、思う。そう思いたい。だって、タキオンさんはこんなあたしと一緒に同じ布団で一晩を過ごしてくれたし、同じ朝ご飯を食べてくれた。そして、「また飲もう」と声を掛けてくれたのだ。
(……そして、何より)
タキオンさんが昨夜寝る間際にあたしに溢してくれた、「見つけてくれてありがとう」という言葉。この言葉があの時からずっとあたしの中に引っかかって離れない。あたしはてっきり、タキオンさんは大学院で他の院生の方達や——あるいは学園時代のご友人達と楽しい日々を過ごしていると思っていたのだけれど、もしかしたらそうではないのかもしれない。「見つけてくれてありがとう」。タキオンさんは卒業してからずっと一人なのだろうか。
……って、そこまで行くと少し妄想の域に近いかもしれない。なんて失礼な想像をしてしまったのだろうか、あたしは。
「……はぁ」
肺の中の凝った空気をぶわっと吐き出し、玄関のドアに背を向ける。部屋まで戻ると、朝に飲み残した紅茶が弱い香りを放っていた。ちょうど、タキオンさんが寮の部屋で好んで飲まれていたお茶の香り。卒業してから今まで一人で紅茶を淹れて飲んでいた時は、一人暮らしを始めたばかりの頃しか思い出さなかったというのに。
ああ、どんなに足掻いても、もうあたしの中にはタキオンさんが棲すまっているんだ——そう思った。
あたしの携帯がタキオンさんからのLANEの通知を浮かべるまで、そう日はかからなかった。