卒業
タキオンが講堂から一歩外に出ると、まだ春は遠くにあるのだということを痛いくらい実感させられた。顔を上げると桜の蕾が視界に映る。枝の先にぶら下がるそれらは、寒さを含んで今にもはち切れてしまいそうだ。
卒業式が終了し、タキオンは卒業証書の入った黒い筒を手にしながらゆっくり教室まで向かおうとしていた。中等部、高等部と長い間通い続けた学園だが、こうして卒業してみるとなんとも呆気ないものだ。うっかり卒業に必要な単位を全て取得してしまったせいで、気付いたときにはわざと留年して学園の施設を使い尽くすという選択肢はタキオンの前から消滅していた。もうこの学園に用はない。そう思って教室に戻り荷物をまとめて寮に戻ろうとしていた、その時だった。
「タキオーン!」
明るくて伸びやかな声が後ろから聞こえてきた。後ろを振り返ると、同じ学年の友人であるファインモーションがにこやかに手を振りながら近付いてきていた。
「ファイン君」
「よかった! シャカールとタキオンはきっとすぐ教室に戻ると思っていたんだ。見事正解だったねっ♪ ねぇ、シャカール?」
「オイ……離せよ」
よく見るとファインの右手には同じく友人のエアシャカールの左手が繋がっていた。シャカールの嫌そうな表情から察するに、彼女は無理矢理ここまで連れてこられたのだろう。見慣れたいつもの光景だけれど、こんな二人を見るのも今日で最後だ。
「……ファインさん、いました」
「あっ! カフェも来てくれてありがとう♪」
みるみる内に級友が集まってゆく。どうやらカフェもファインに呼び出されてやってきたようだ。気付けばタキオン、カフェ、ファイン、シャカールの〝いつものメンバー〟が寒空の下校舎の隅に集まっている。ファインは全員の顔を見て満足そうに話を始めた。
「これで集まったね! 今日はね、せっかくの機会だし皆にプレゼントを渡したくて持ってきました!」
そう言ってファインは話を始めた。なんでも、ファインは卒業の記念にタキオン達三人にそれぞれプレゼントを渡してくれるのだという。ファインは三人に順番にプレゼントを渡した——タキオンにはアイルランド王室御用達店のティーカップが贈られた。その後しばしの間タキオンが彼女らの歓談に付き合っていると、携帯がLANEの通知音を鳴らした。シャカールが「式中切ってなかったのかよ」と突っ込んでいるのが聞こえたが、構わず通知を確認する。
『アグネスデジタル
こんにちは。今少し大丈夫ですか?
東棟の裏にいるのですが……』
「……誰からでしたか?」
液晶の上で指を止めたのを見て、カフェが尋ねる。
「——ああ、デジタル君からだよ」
「へェ、デジタルからLANEなんて珍しいな。行かなくていいのか?」
「いや、ちょっと出るよ」
そう言ってタキオンは携帯をポケットにしまい、三人に別れを告げその場を離れた。三人は「また後で」と言ってくれたが、この三人にはもうしばらく会わないだろうとタキオンは直感した。ここから東棟までは少し距離がある。彼女が冷えてしまう前に、急がなければ。
◆
「デジタル君」
タキオンが東棟の裏まで辿り着くと、壁にゆるくもたれ掛かってローファーの爪先を見つめているデジタルを見つけた。
「タキオンさん」
デジタルはタキオンの顔を見てぱっと顔を綻ばせた。彼女の髪色も相まって、その姿はまるで早咲きの桜の花のようだ。
「どうしたんだい? 君から呼び出すだなんて珍しいね」
「ええ……あ、ご卒業おめでとうございます……! あの、あたし、どうしてもこれをタキオンさんにお渡ししたくてっ」
デジタルは言葉を絞り出したあと、背中に隠していたものを勢い良くタキオンの目の前に差し出した。
「これは——」
「あ、あの、これ……あの……バ……、バラ、でしゅ……」
震えるデジタルの両手に握られていたのは、確かに一輪の赤いバラだった。
いくら浮世に疎いタキオンとはいえ、今デジタルから贈られたバラの意味くらい理解できる。赤いバラが示す意味なんて『愛』くらいしかないに違いない。卒業式に贈る習慣のないバラをわざわざ選んで贈るということは、よっぽど去りゆく自分のことが恋しくて寂しくて堪らなかったのだろう。元々他のウマ娘に個人的な好意を伝えるのが苦手なデジタルがこんなにストレートな手法を取ったというのは、少し意外だったが。
「ふぅン」
一息置いてデジタルの方に視線を移すと、俯いたままの彼女の頭から覗く頬がバラと同じくらい真っ赤に染まっていた。
「あ、あの、お嫌でしたら処分してくださって構いませんから」
デジタルは頭を下げたまま、赤い耳をこちらに向けていた。
デジタルは、タキオンとただのルームメイトだった頃から交際——そして今に至るまで、タキオンには所謂〝消えもの〟のプレゼントしか渡さなかった。消えものとは一言で言っても、その種類は多岐に渡る。高級茶葉はもちろんのこと、紅茶に合うお菓子、砂糖、そしてアロマキャンドルなど——実に様々なものをデジタルは事あるごとにタキオンにプレゼントしてきた。
だがしかし、生花を渡してきてくれたのは今回が初めてだ。きっと消えものでありながら深く意味の込められるプレゼントとして花を選んだのだろう。一輪だけにしたのはタキオンの負担にならないようにとデジタルが気を遣った結果だと予想できる。
「ありがとう、デジタル君」
そんなデジタルの姿に、胸の中が愛おしさでいっぱいになる。正直このまま抱き締めてしまっても良かったのだが、今まさに受け取ったバラの花——そして卒業証書やらファインから貰ったプレゼントやらでそれは叶わず、タキオンはただ落ち着いた振りをしながら感謝の言葉を述べるに留めざるを得なかった。
こんないじらしくて可愛らしくて堪らない恋人に何かお返しをしてあげたい。そう思ったタキオンはゆっくりと自分の耳に手を掛け、耳飾りを外した。手の中に自分のアイデンティティの一つが小さく収まる。
「なぁデジタル君、君も耳飾りを外してくれないか」
タキオンに促され、デジタルは慌てて自分の耳飾りを外した。みるみる内にデジタルの耳の根本が晒されていって、タキオンは白日の元でこの儀式を行おうとしていることを少し後悔した。
「これを君に預けよう」
そう言ってタキオンはデジタルに自らの耳飾りを差し出した。弱々しい春の陽射しを受けて、薄い浅葱色が小さな光を返す。
「えっ、そ、それって——」
「おっと、何もプレゼントするわけではないよ。預けるだけだ。期限は、また君と一緒にいられるようになるときまでさ。——だから、君のも私に」
タキオンの言葉を聞いてデジタルは耳を鋭く立たせ、再び顔を真っ赤にして汗をダラダラと流し始めた。震える手から彼女の耳飾りが二つ渡される。細かなラメが入ったその耳飾りは、手汗で少ししっとりしているようだ。
「あ、あの……あたし、寂しいですけど、卒業まで自分のレースに集中します」
「うん」
「なので、タキオンさんも頑張ってください」
「ありがとう」
そこまで話したところで、デジタルが再び俯いて小さな声でこう言った。
「…………好きです、タキオンさん」
——ああもう、この子のなんと可愛いことか。
「私もだよ、デジタル君」
堪らずタキオンはデジタルを抱き締める。手荷物が彼女の背中で渋滞を起こしたが、知ったことではなかった。すぐに応えるようにしてデジタルの腕が肩まで伸びてくる。三月の透けそうな空の下で、デジタルの体温はいつもより一際温かいように感じた。自分の手によって晒されてしまった彼女の耳元が、タキオンのすぐ目の前まで迫っていた。
二人はしばらく抱き合っていたが、デジタルが突然我に返ったように、「あまり外で一緒にいてはいけない気がします」とタキオンの腕から離れた。
「……だって、タキオンさんは皆さんの推しなんですから」
言い終わるとデジタルは困ったように微笑んだ。……きっと彼女の背中にプレゼントが食い込んでいたのだろうとタキオンは軽率な自分を悔いた。
「またすぐに連絡しますね」
そう言ってデジタルは軽く会釈してその場を離れた。大事そうにタキオンの耳飾りを鞄にしまうデジタルの後ろ姿を見て、タキオンはまた愛おしさに打ちのめされる。手の中で輝く二つの耳飾りを見つめながら、彼女を想ってそっと撫でた。
(「私も寂しい」と言えるほど、私はまだ大人じゃない)
タキオンは校舎の壁にもたれかかり、デジタルから貰った耳飾りを見つめる。
(私が本当に大人になったと心から思える頃に、デジタル君にまた迎えに来てほしい)
余裕のある振りだけして、彼女の真っ直ぐな愛にろくに応えられなかった。彼女と離れ離れになるこの時間はきっと自分が大人になるための期間だ。そう思って過ごさないといけない。手のひらに収まった水色と白色の髪飾りは、陽射しを受けて僅かに暖かい光を返していた。
ああ、私もこんな風に健気になれるだろうか。
タキオンは校舎の影の中で一人思った。
卒業式が終了し、タキオンは卒業証書の入った黒い筒を手にしながらゆっくり教室まで向かおうとしていた。中等部、高等部と長い間通い続けた学園だが、こうして卒業してみるとなんとも呆気ないものだ。うっかり卒業に必要な単位を全て取得してしまったせいで、気付いたときにはわざと留年して学園の施設を使い尽くすという選択肢はタキオンの前から消滅していた。もうこの学園に用はない。そう思って教室に戻り荷物をまとめて寮に戻ろうとしていた、その時だった。
「タキオーン!」
明るくて伸びやかな声が後ろから聞こえてきた。後ろを振り返ると、同じ学年の友人であるファインモーションがにこやかに手を振りながら近付いてきていた。
「ファイン君」
「よかった! シャカールとタキオンはきっとすぐ教室に戻ると思っていたんだ。見事正解だったねっ♪ ねぇ、シャカール?」
「オイ……離せよ」
よく見るとファインの右手には同じく友人のエアシャカールの左手が繋がっていた。シャカールの嫌そうな表情から察するに、彼女は無理矢理ここまで連れてこられたのだろう。見慣れたいつもの光景だけれど、こんな二人を見るのも今日で最後だ。
「……ファインさん、いました」
「あっ! カフェも来てくれてありがとう♪」
みるみる内に級友が集まってゆく。どうやらカフェもファインに呼び出されてやってきたようだ。気付けばタキオン、カフェ、ファイン、シャカールの〝いつものメンバー〟が寒空の下校舎の隅に集まっている。ファインは全員の顔を見て満足そうに話を始めた。
「これで集まったね! 今日はね、せっかくの機会だし皆にプレゼントを渡したくて持ってきました!」
そう言ってファインは話を始めた。なんでも、ファインは卒業の記念にタキオン達三人にそれぞれプレゼントを渡してくれるのだという。ファインは三人に順番にプレゼントを渡した——タキオンにはアイルランド王室御用達店のティーカップが贈られた。その後しばしの間タキオンが彼女らの歓談に付き合っていると、携帯がLANEの通知音を鳴らした。シャカールが「式中切ってなかったのかよ」と突っ込んでいるのが聞こえたが、構わず通知を確認する。
『アグネスデジタル
こんにちは。今少し大丈夫ですか?
東棟の裏にいるのですが……』
「……誰からでしたか?」
液晶の上で指を止めたのを見て、カフェが尋ねる。
「——ああ、デジタル君からだよ」
「へェ、デジタルからLANEなんて珍しいな。行かなくていいのか?」
「いや、ちょっと出るよ」
そう言ってタキオンは携帯をポケットにしまい、三人に別れを告げその場を離れた。三人は「また後で」と言ってくれたが、この三人にはもうしばらく会わないだろうとタキオンは直感した。ここから東棟までは少し距離がある。彼女が冷えてしまう前に、急がなければ。
◆
「デジタル君」
タキオンが東棟の裏まで辿り着くと、壁にゆるくもたれ掛かってローファーの爪先を見つめているデジタルを見つけた。
「タキオンさん」
デジタルはタキオンの顔を見てぱっと顔を綻ばせた。彼女の髪色も相まって、その姿はまるで早咲きの桜の花のようだ。
「どうしたんだい? 君から呼び出すだなんて珍しいね」
「ええ……あ、ご卒業おめでとうございます……! あの、あたし、どうしてもこれをタキオンさんにお渡ししたくてっ」
デジタルは言葉を絞り出したあと、背中に隠していたものを勢い良くタキオンの目の前に差し出した。
「これは——」
「あ、あの、これ……あの……バ……、バラ、でしゅ……」
震えるデジタルの両手に握られていたのは、確かに一輪の赤いバラだった。
いくら浮世に疎いタキオンとはいえ、今デジタルから贈られたバラの意味くらい理解できる。赤いバラが示す意味なんて『愛』くらいしかないに違いない。卒業式に贈る習慣のないバラをわざわざ選んで贈るということは、よっぽど去りゆく自分のことが恋しくて寂しくて堪らなかったのだろう。元々他のウマ娘に個人的な好意を伝えるのが苦手なデジタルがこんなにストレートな手法を取ったというのは、少し意外だったが。
「ふぅン」
一息置いてデジタルの方に視線を移すと、俯いたままの彼女の頭から覗く頬がバラと同じくらい真っ赤に染まっていた。
「あ、あの、お嫌でしたら処分してくださって構いませんから」
デジタルは頭を下げたまま、赤い耳をこちらに向けていた。
デジタルは、タキオンとただのルームメイトだった頃から交際——そして今に至るまで、タキオンには所謂〝消えもの〟のプレゼントしか渡さなかった。消えものとは一言で言っても、その種類は多岐に渡る。高級茶葉はもちろんのこと、紅茶に合うお菓子、砂糖、そしてアロマキャンドルなど——実に様々なものをデジタルは事あるごとにタキオンにプレゼントしてきた。
だがしかし、生花を渡してきてくれたのは今回が初めてだ。きっと消えものでありながら深く意味の込められるプレゼントとして花を選んだのだろう。一輪だけにしたのはタキオンの負担にならないようにとデジタルが気を遣った結果だと予想できる。
「ありがとう、デジタル君」
そんなデジタルの姿に、胸の中が愛おしさでいっぱいになる。正直このまま抱き締めてしまっても良かったのだが、今まさに受け取ったバラの花——そして卒業証書やらファインから貰ったプレゼントやらでそれは叶わず、タキオンはただ落ち着いた振りをしながら感謝の言葉を述べるに留めざるを得なかった。
こんないじらしくて可愛らしくて堪らない恋人に何かお返しをしてあげたい。そう思ったタキオンはゆっくりと自分の耳に手を掛け、耳飾りを外した。手の中に自分のアイデンティティの一つが小さく収まる。
「なぁデジタル君、君も耳飾りを外してくれないか」
タキオンに促され、デジタルは慌てて自分の耳飾りを外した。みるみる内にデジタルの耳の根本が晒されていって、タキオンは白日の元でこの儀式を行おうとしていることを少し後悔した。
「これを君に預けよう」
そう言ってタキオンはデジタルに自らの耳飾りを差し出した。弱々しい春の陽射しを受けて、薄い浅葱色が小さな光を返す。
「えっ、そ、それって——」
「おっと、何もプレゼントするわけではないよ。預けるだけだ。期限は、また君と一緒にいられるようになるときまでさ。——だから、君のも私に」
タキオンの言葉を聞いてデジタルは耳を鋭く立たせ、再び顔を真っ赤にして汗をダラダラと流し始めた。震える手から彼女の耳飾りが二つ渡される。細かなラメが入ったその耳飾りは、手汗で少ししっとりしているようだ。
「あ、あの……あたし、寂しいですけど、卒業まで自分のレースに集中します」
「うん」
「なので、タキオンさんも頑張ってください」
「ありがとう」
そこまで話したところで、デジタルが再び俯いて小さな声でこう言った。
「…………好きです、タキオンさん」
——ああもう、この子のなんと可愛いことか。
「私もだよ、デジタル君」
堪らずタキオンはデジタルを抱き締める。手荷物が彼女の背中で渋滞を起こしたが、知ったことではなかった。すぐに応えるようにしてデジタルの腕が肩まで伸びてくる。三月の透けそうな空の下で、デジタルの体温はいつもより一際温かいように感じた。自分の手によって晒されてしまった彼女の耳元が、タキオンのすぐ目の前まで迫っていた。
二人はしばらく抱き合っていたが、デジタルが突然我に返ったように、「あまり外で一緒にいてはいけない気がします」とタキオンの腕から離れた。
「……だって、タキオンさんは皆さんの推しなんですから」
言い終わるとデジタルは困ったように微笑んだ。……きっと彼女の背中にプレゼントが食い込んでいたのだろうとタキオンは軽率な自分を悔いた。
「またすぐに連絡しますね」
そう言ってデジタルは軽く会釈してその場を離れた。大事そうにタキオンの耳飾りを鞄にしまうデジタルの後ろ姿を見て、タキオンはまた愛おしさに打ちのめされる。手の中で輝く二つの耳飾りを見つめながら、彼女を想ってそっと撫でた。
(「私も寂しい」と言えるほど、私はまだ大人じゃない)
タキオンは校舎の壁にもたれかかり、デジタルから貰った耳飾りを見つめる。
(私が本当に大人になったと心から思える頃に、デジタル君にまた迎えに来てほしい)
余裕のある振りだけして、彼女の真っ直ぐな愛にろくに応えられなかった。彼女と離れ離れになるこの時間はきっと自分が大人になるための期間だ。そう思って過ごさないといけない。手のひらに収まった水色と白色の髪飾りは、陽射しを受けて僅かに暖かい光を返していた。
ああ、私もこんな風に健気になれるだろうか。
タキオンは校舎の影の中で一人思った。