赤穂屋本館

パッションフルーツ

 ほんの偶然だったのだ。

 その日は委員長君と日直になってしまったがために、普段ならやらなくてもいいような雑用が多くあった。花瓶の水の入れ換え、課題ノートを出席番号順に揃える、毎時間黒板を輝くほど美しく綺麗にする、移動教室の際にクラスメイトにその旨を周知させる、休み時間には委員長君と校内パトロール、等々。無論私はどうしてここまでやらねばならないのか尋ねたが、「これが学級委員長の務めなのですッ!!」と元気良く答えるばかりで話にならなかった。いつもの授業みたく踏み倒してしまっても構わなかったのだが、彼女のことだから後日きっちり叱責してくるだろうと考え、私は渋々従うことにしたのだ。

 その日の授業が終わっても彼女に命じられた日直業務はまだ残っており、早く旧理科準備室に足を運びたい気持ちを抑えながら私はクラスメイトのロッカーを磨いていた。みるみるうちに輝いていく金属の直方体を前に少しずつ掃除の楽しさに目覚め始めてきた頃、ロッカーの行列の端まで雑巾を掛けることができた。

「ふぅ……」
 やっと終わった。溜息を一つ吐いて、私は雑巾を片手に手洗い場へ歩を進める。長かった日直業務も次で最後だ——。最後とは言っても何でもないもので、数学の教師にクラスから集めたノートを届けるだけの何の変哲もない仕事だった。

 ただ私がそれを後回しにしたのには理由があって、その教師がいる部屋と、中等部の校舎に至る廊下が非常に近いのだ。少し廊下から顔を出せば中等部の生徒の姿が見られるだろう。ノートを届ける道すがら、あわよくば中等部であるデジタル君の『尊顔』を拝んでやろうという魂胆だった。

 交際し始めて数ヶ月が経つ私達だが、実は一日の中で会う機会は少ない。学年も距離適性も行動範囲も違う私達がこうして寮以外で出会えるというのは、滅多にないことなのだ。

 私は絞りきった雑巾を窓際に干し、手を洗い終えるとノートの束をまとめて教室を出た。もうとっくにトレーニングの時間帯である今、廊下を歩くウマ娘は少ない。それも含めてデジタル君と会える可能性はかなり低いと考えられるのだが、それでも私の尻尾の根は疼いて仕方がなかった。

 足を軽く弾ませながら、桃色の尾を探す。廊下の角から頭を出すと、その奥に彼女の大きなリボンが見えた。

「あっ」
 それと同時に、隣に見たことない髪色のウマ娘がいることに気付いた。中等部の校舎であるし、背格好からして中等部の生徒であろうことは分かる。デジタル君のクラスメイトなのだろうか。

「じゃあデジタルちゃん、土曜日の二時ねっ」
「はっ……はいぃ……!」
 デジタル君はおどおどとした様子でそのウマ娘との会話を進めている。

「あはは! もう、タメ語でいいじゃーん」
 その見知らぬウマ娘は言葉を弾ませて、デジタル君の肩を親しげに抱いた。私以外のウマ娘の腕が、デジタル君の身体に触れている。私は腕に抱えていたノートを溢しそうになった。

「ひゃああ……!!」
「ねっ。この学園で同じオタクの子初めてみたんだよう。仲良くしよっ?」
「はっ……ふぁ……」
 見知らぬウマ娘はそう言ってなんとデジタル君に抱き着いてしまったのだ。

 ——ああ、デジタル君はそんな風に強引に行くとかえって逃げてしまうような子だよ。そうあのウマ娘に教えてやりたかった。
 しかし廊下の隅のデジタル君は私の予想とは裏腹に、満更でもなさそうな表情でその抱擁を受け止めていたのだ。

「えへへ……楽しみですぅ……」
 デジタル君は喜びに満ちた表情を浮かべている。私はそんな彼女の顔を、あんなに間近で見られたことがまだない。

 私は何も見なかったことにして、教師の待つ部屋に向かった。教師には、提出が遅かったことを咎められた。



「……というわけなのだよ、カフェ」
 溜息の代わりに紅茶を啜る。

 あの後そのままトレーナー君のところに直行した私だったが、何故だかトレーニングに身は入らなかった。初めてだったのだ、あんな精神状態に陥ったのは。あの光景を見た瞬間、耳と尻尾を同時に掴まれているかのような不快感に襲われ、まるで身体の中で湯が沸騰しているかのようだった。トレーナー君には何が見えているのだろう、トレーニング中何故か走りは褒められたものの釈然としない気持ちだった。曰く、「いつもより足と顔付きが鋭い」のだそうだ。

 ……私は今の状態に相応しい言葉が何なのか、選び取ることができなかった。不機嫌、嫌悪感、忌避感。様々な言葉が言語中枢から浮かび上がってくるが、どれもしっくりこない。

「………」
 私の話を聞いてカフェは俯いた。何かを考えているようだが、瞳の動きから察するに物事の本質——即ち、私のこの精神状態は如何なるものか——ではなく、もっと他の、細かい何かについて考えているようだった。一向に見解を述べない彼女に苛立ちを覚え、つい口を開いてしまった。

「なんだ、何か言いたいなら言いたまえよ」
「はぁ……」
 まだ分からないのか、とでも言いたそうな瞳が睨む。彼女は呆れたように溜息を吐き、それから一言呟いた。

「……タキオンさん、それは嫉妬心ですよ」
「嫉妬」
 カフェが口にしたその言葉を復唱してみた。私には馴染みのない言葉だったからだ。しかし、いくら国語の時間に漢字練習をしたところでその漢字の形までしか覚えられないのと一緒で、私はその『嫉妬』という単語の実体を上手く掴むことができなかった。

「私がデジタル君にかい?」
「はい……」

 ……なるほど。

 紅茶の香りに引き寄せられるように、いつかのスカーレット君の言葉が思い出される。何でも、ウオッカ君がレースで優れた成績を出したり、自分よりも良いタイムを出したりすると『嫉妬』してしまうらしい。
 しかし、恐らくスカーレット君の嫉妬と私の嫉妬らしきものは種類が違う。言うまでもないが、私は彼女の走りに嫉妬しているのではない。そもそも私がその不快感を覚えたのは、彼女が友達と仲睦まじく触れ合っていたときなのだ。

 
 ——じゃあデジタルちゃん、土曜日の二時ねっ。
 あの見知らぬウマ娘の声が蘇る。

 そのウマ娘は「同じオタクの子」と言っていた。ということはやはり、デジタル君とあの子は『友達』なのだろう。
 私とデジタル君は交際し始めてからは間もないけれど、付き合う以前からの親交自体は浅くない。むしろ私が世話になっている人物の中では付き合いは長い方だと言ってもいい。

 しかしデジタル君は私と交際している今でさえも、私との接触になかなか慣れない様子なのだ。私と触れられるチャンスが巡ってくると顔面を紅潮させ、過呼吸を起こす。手でも触れようものなら大声を上げて失神する。——私が昔から何度も繰り返し観測した、彼女の身体反応だった。
 だが、あのウマ娘はそんな彼女の性質を意にも介さず親しげに肩を抱いて見せたのだ。そしてデジタル君はそれに好意的な反応を返していた。私が何年掛けても越えられなかった障壁を、彼女はいとも容易く越えてみせたのだ。

 顎に当てていた指に思わず力が入る。同じ学年、同じ趣味というだけでこうもデジタル君との関係構築に差が出るだなんて。私だって、叶うならあんな風にデジタル君を遠慮なく抱き寄せて、あの潤んだ瞳を間近で観察したい。桃色の髪に指を通して、白い首筋に触れながら彼女の名前を呼びたい。

「タキオンさん」
「……ン?」
「眉間に、しわが……」
 カフェの一言で意識を呼び戻される。そう言う彼女も眉根を下げた表情を浮かべていて、なんだか吹き出しそうになった。

「やぁ、すまないね。嫉妬という感情についてここまで身近になったことは初めてだったから、つい」
 カフェの金色の目がじろりとこちらを向く。

「……タキオンさんも、つくづく不思議な人ですね」
 そう言って彼女は私のティーカップを下げてくれた。私にとってはなんだかんだ言いながらもこうして世話を焼いてくれるカフェの方が『不思議な人』に見えるのだが、言葉を呑み込んで会話の流れに従う。

「そうかい? 妬むような——、それこそ人生の壁になるような対象がそれまで現れたことのない人なら、そう珍しくもないだろう」
「……それが珍しいんですよ……」
「そういうものかな」
 私の言葉に応えるように蛇口の水音が流れる。どうやら私のスペースにあるシンクで洗い物をしてくれているらしい。

 カフェが私の元から離れると、私の意識はたちまちまたあの廊下に投げ出された。抱擁するウマ娘と、それを受け入れるデジタル君。思い出すだけで不快感を覚えるのに、どうして何度も映像を再生してしまうのだろう。つくづく人の脳というのは不合理に出来ていると思う。

「——デジタルさんはどんな些細なことでも気付く方ですから、全て話してみるのも手だと思います……」
「……っ、ああ」

 いつの間にかカフェが戻ってきて、私の隣に座っていた。その気配に気付かなかったのは、それだけ私の思考がデジタル君のことで占められていたということだ。『気が気でない』とは、まさにこのようなことを言うのだろう。カフェの言う通り、彼女は私のどんな変化でも必ず気付く子だから、いっそのこと吐き出してしまった方が確かに楽になれるかもしれない。

「……そうだね。そうしてみようかな」
「はい……。デジタルさんなら、きっと大丈夫です……。」
 カフェの声色はいつも通りの淡々としたものだったが、そこには彼女の確信のようなものが篭っていた。

「……ありがとう、カフェ」
 カフェに感謝を伝えて立ち上がる。私が部屋を出るときもカフェは特に私を気にする素振りはなかったけれど、感謝の言葉は届いていると確信できた。

 彼女のおかげで少しだけ冷静になれた。この気持ちが変質する前に、早くデジタル君に会わなければ。



 すっかり部屋着に着替え、髪の毛も下ろしてリラックスする彼女。その後ろ姿に話しかけた。
「デジタル君、突然だけど聞いてほしいことがあるんだ」
「ふぇっ」
 こちらを振り向いた彼女の、ぱっちりとした目が大きく見開かれた。桃色の睫毛が私の出方を窺っている。

(——あ)
 彼女の右手にあったスマホには、何かのイベントの開催情報と、来週の土曜日の日付、十四時の文字があった。一瞬目に入っただけだが、写ってる画像からどうやらウマドルのイベントらしいということは分かった。頭の中の映像が瞬く間に全て繋がってゆく。

 その瞬間——やはりこの心を隠したままデジタル君と付き合っていくのは難しい、と直感した。脊髄を走った閃光に突き動かされるように、私は口を開く。

「……デジタル君。私が今から言うことの中に君を責めるような意図はないから、落ち着いて聞いてくれ」
 恐らくただならぬ雰囲気を纏っているであろう私の言葉に、デジタル君の唇の端が緊張する。しかし、そんな彼女に負けず劣らず私も緊張していた。
 ウマ娘を誰よりも崇拝し敬愛するデジタル君に、ウマ娘である私が他のウマ娘に嫉妬したという事実を伝えること。それは、彼女の心象を大きく損なう行為ではないだろうか。

「私は——」
 それでも私は伝えるしかない。私はもう、デジタル君と恋人としてきちんと歩み始めたい。そのために、私の心の内を開くのは必要なことだと思った。彼女を、信じたかった。

 私はなるべく自分を抑えながらゆっくりと話し始めた。

「今日私は、君と君の友達が話しているところを見たんだ。……君達が、抱き合っているところもね」
「——!!」

 やはりと言うべきか、デジタル君の顔がみるみるうちに青ざめる。ここまでは概ね予想通りだが、この先の彼女の反応は未知だ。私の中の勇気を奮わせ言葉を続ける。

「デジタル君、私はね。包み隠さずに言うと、君と躊躇なく抱き合える君の友達が羨ましくてしょうがなかった。後で分かったのだが、これが私の初めての嫉妬という感情だったらしい」
 彼女はまるで雷に打たれたかのように目を大きく見開いて、そのまま動かなくなってしまった。続く私の言葉が耳に入るかどうかは分からなかったが、ここで止まるわけにもいかなかった。

「……決して君を束縛したいわけじゃないんだ。君の自由を奪うことはしたくない。だけど私もあの子のように君を抱きしめたいと、その瞬間思ってしまったんだ」
「………」
 デジタル君は固まったまま瞬きを繰り返すだけで、いつもの激しい感情表現を一つも見せない。彼女がウマ娘に対してこんなに静かな反応を見せるのは、私が知りうる限りでは初めてだ。

 私が話し終えてもデジタル君は固まったままで、何か返事をする素振りは見られなかった。ああ、やはり彼女を困らせてしまったのだと後悔の念が私の背中を覆い始めた。

「……急にこんな話をしたりしてすまなかった。忘れてくれ」
 思わず逃げるように彼女から視線を外し背中を向けると、
「タキオンさんっ」
 力の篭った声が後ろから聞こえた。

「すぐに返事できなくてごめんなさいっ、あたし、タキオンさんのお話で色んな感情でいっぱいになっちゃって」
 振り向くと、彼女は顔を真っ赤にして胸を抑えていた。

「さっきタキオンさんはこれが初めての嫉妬って教えてくれたじゃないですか。あたし、嬉しくてっ」
「……嬉しい?」
 思わず訝しんだ声を出して聞き返す。

「はいっ……あたしが、あたしなんかが、タキオンさんの中の新しい感情を引き出せたのが嬉しいのと、今まで誰にも嫉妬を覚えずに生きてきたタキオンさんが尊くてぇっ……」
 デジタル君は話しながら自分の言葉に感極まったのか、涙目になっていた。

「……デジタル君」
「ひゃいっ」
「君の中に生まれた感情は、それだけかな?」
「ふぇっ」

 彼女はさっき『色んな感情でいっぱいになった』と言っていた。自分の中に生まれた感情に名前を当てはめたり、形容したりするのが得意なデジタル君が小休止を挟まなければ処理できないほどの激情。その正体がこれだけであるはずがないのだ。

「——まだあるだろう。君の気持ちを教えてくれ、デジタル君」
「ひぇ、ひぇえ……!」
 デジタル君の瞳にずいと近付くと、彼女は弱々しく目を逸した。やはり図星だったらしく、みるみるうちに顔と耳が赤くなる。彼女は逡巡するように固く閉ざした唇を何度か動かした後、観念したのか僅かに語り始めた。

「……タキオンさんが、あたしを抱きしめたい、って思ってくれたのが、嬉しくて……」
「……!」
 今度は私が固まる番だった。デジタル君は自分の手元を弄りながら小さな声で話す。

「あたしもタキオンさんと、それこそあの子としたみたいに、もっと、は……ハグとかしてみたかったんですけど、タキオンさんとだと緊張しちゃって……」
 それまで視線を手元に泳がせながら話していた彼女は、おずおずとこちらに視線を向けた。

「ずっと、あたしなんかがタキオンさんともっと近付きたいって言ったら、嫌われちゃうと思ってたんです……、でも、タキオンさんも同じ気持ちだって分かって、あたし……あの、その……」
 デジタル君は口籠もりながらも必死に伝えようとしてくれる。それがいじらしいやら愛しいやらで、もう我慢できなかった。

「わぁ!?」
 彼女の肩を掴み、思い切り抱き寄せる。突然の出来事に驚いたデジタル君だったが、私の腕の中にすっぽりと収まり大人しくなった。
「君も私と同じことを思っていたなんて、知らなかったよ」
「う、うう、恥ずかしいですぅ……」
そう言いつつもデジタル君は遠慮がちに両手を背に回してくれた。

「デジタル君」
「はいぃ……」
「君を信じて話して良かった。ありがとう」
「!!」
 私がそう言うと、背中に触れていた指がぎゅっと食い込んで彼女の尻尾が直立した。背筋や腕の力の入り方から、どうやら彼女の身体が硬直したらしいのが分かる。

「デジタル君? 大丈夫かい?」
「……だ、だいじょうぶ、です」
 少し間を置いてデジタル君の手が緩む。

「あたし、幸せすぎて死んじゃいそうですぅ」
「ふふ」
 そっと体を離すと、彼女の潤んだ瞳と目が合った。朝焼けのような清々しい色を湛えた彼女の瞳が、私は好きだ。

「駄目だよ。二人で幸せになるんだから」
「はうっ……!!」
 彼女の手を取ってそう囁くと、弱々しく息を吐き出してぐにゃぐにゃと床にへたり込んでしまった。

「おーい、デジタル君」
 いくら呼び掛けても、返事は無い。耳にも尻尾にも触れてみたが反応は無し。どうやらついに失神してしまったらしい。

 彼女の小さな身体を抱えると、無駄な脂肪の一切ない細い肢体が私の腕に吸い付く。そのままベッドに寝かせてやり、顔を覗き込むと彼女は心から幸せそうな顔で眠っていた。

「ありがとう、デジタル君」
 そっと呟いて、私は彼女の額にキスをした。デジタル君は、清潔な石鹸の香りがした。