赤穂屋本館

今日、帰りたくない

 闇に揺らぐその栗毛の尾を見た瞬間、間違いないと思った。

 あれはタキオンさんだ。——たとえ繁華街を流れる人混みのうちの一人だったとしても、寮で何年も一緒に暮らしたあたしが間違えるはずなかった。
 数年ぶりに見たタキオンさんは昔よりも髪の毛が伸び放題になっていたが、相変わらず白衣をざっくりと羽織っていた。

 あたし達、オタク同志の集いは、居酒屋でのオタク談義で燃え上がったのにも飽き足らず、店の前でもなかなか別れられず立ち話をしていた。そんなあたしの横をタキオンさんが平然と歩いていったとき、突然の出来事で目が離せなくなっていた。

 ——学生時代、愛するウマ娘ちゃん達の中でも畏れ多くも一番お近付きにならせていただいた、タキオンさん。
 タキオンさんは、一足早い学園の卒業とともにぱったりと行方を眩ませてしまった。

 退去間際に進路は一応尋ねたものの「ウマ娘の可能性を追究する」と答えるだけで具体的にどんな進路なのかは分からないままだった。他のウマ娘ちゃんのようにSNSといったファン向けの発信ツールは何も使っていなかったので、卒業後のタキオンさんのことについては本当に何も分からなかった。

 一つだけ——LANEは交換していたけど、あたしなんかが特に用事もないのに連絡するわけにもいかず、たまに思い出しては思いを馳せる日々だった。

「……デジタルちゃん?」

 タキオンさんらしき人影に目を奪われたままのあたしの隣で、友達が心配そうに首を傾げた。その声でハッと我に返る。

「す、すみません! ちょっとあのウマ娘ちゃん、あたしの学生の時の知り合いで……少しお話してきてもいいですか?」
「え、そうなの? 私なんかに構わず行ってきなよ、ちょうどお開きだったし」
「本当ですか!? あ……ありがとうございますッ!!」
「うん! お疲れさま!」
「お疲れ様です!!」
 持つべきは素晴らしい友だ!——と心の中で叫びながら寛大で優しい彼女に一礼し手を振ると、あたしはタキオンさんらしき人影のもとへ駆け出した。

 ただでさえ街中で白衣姿は目立つというのに、彼女は両手に多くの荷物を持っていたので雑踏の中でもすぐに見分けることができた。

「タキオンさん!」
 思えば、まだ本人かどうか分からないのに声を掛けるなんて、らしくなかったと思う。それでもその時のあたしは、その白衣がタキオンさんのものだと信じてやまなかったのだ。

 白衣を着たウマ娘ちゃんが、あたしの声を聞いてゆっくりと足を止める。周りを見渡したそのとき、その青い髪飾りがネオンの灯りに照らされるのを見て、あたしは更に歩幅を大きくした。

「タキオンさん!」
「……おや、デジタル君じゃないか」
 タキオンさんは声の主があたしだと分かると、昔と変わらない微笑みを見せてくれた。

「こんなところでどうしたのかな」
 タキオンさんが、あの頃のようにあたしの顔を覗きこんだ。まだ学生の時よりは落ち着きを持てるようになったとは思うけど、それでも未だにこの仕草は心臓に悪い。

「ひゃあっ! え、え、えっと、あたしは友達と飲みに……タキオンさんは……?」
「私かい? 私はこれさ」
 そう言ってタキオンさんは両手の荷物を掲げてみせた。袋の中からは、カチャカチャという聞き馴染みのある鋭いガラスの音がする。

 タキオンさんは学生時代、通販で実験器具を揃えていた。だが、たまに——曰く偶発性を求めて——こうして自らの足で買い集める日もあった。そして両手に沢山の実験器具と薬品を抱えて帰ってきては研究室に向かうのだ。
 何もかも、学生の時と変わらない光景だった。

「それにしてもこんなところで会えるとはねぇ。元気そうで何よりだよ」
「え、えへへ………」
 会話をしながら、あたしは心臓がはやるのを抑えきれなかった。こんなに心臓が脈打つのはウマ娘ちゃんのライブを現地で見た数か月前以来だ。あの時も目の前で何が起こっているのか分からなくてとにかく叫びながらペンライトを振り回していた。

 だが今はそんなことはできない。数年ぶりに会えたタキオンさんを目の前に、あたしは何を話そうか、何を聞こうかと無我夢中で頭と口を回していた。

 そしてその時のあたしは何を思ったのか、
「タキオンさん、晩ごはんってもう食べられましたか?」
 と尋ねていたのだった。