赤穂屋本館

幸せな食卓

 私は自分の家に何の食材があるのかを把握したことがない。

 我が家の食材を管理しているのは全てデジタル君だ。彼女は私の食の好みを一年掛けて完全に理解し、その上で計画的に食材を購入している。米、パン、野菜、肉、魚、調味料、菓子、紅茶——全てのジャンルの食材がバランス良く、そして途切れることなく冷蔵庫に存在し続けている。
 驚くべきことに彼女は私のたまの間食も計算に入れているらしい。この食材の均衡は私が少々つまみ食いをしたくらいでは崩れないのだ。私がその日どんな気分になったとしても、朝食、昼食、間食、夕食が全く欠けのない状態で私の前に現れる。

 日が落ちてもなお実験の結果の精査を行っていた私は、彼女が奏でるフライパンのじゅうじゅうという音で今いる空間に意識を戻した。
 しばしば研究の世界に攫われてしまう私は、いつもこうやって彼女に呼び戻してもらうのだ。
 とはいえ、彼女が本当に呼んできてくれるまではまだ少し時間があるだろう。彼女はいつも料理を盛り付けて、お茶の用意をして、箸を並べてからやっと呼んでくれるからだ。
 私は書類を片しながらすっかりぬるくなった紅茶に口をつけた。

「タキオンさん、できました!」
 デジタル君の朗らかな声が私の部屋まで届く。
 彼女の声を聞いてダイニングまで向かうと、そこではエプロン姿のデジタル君が幸せそうに笑っていた。

 食卓に目を向けるとなんだかいつもより品数が多いように感じた。
 今まで彼女の料理に手抜きがあったことは一度だってない。しかしそれにしても今日は彩りも多く、赤、黄、緑といった食材の色が食欲増進を意図しているように感じられる。
「デジタル君、これは……」
「えへへ。やっぱり覚えていないんですね」
 デジタル君がもじもじと体を動かした。彼女のつぶらな瞳の中に私の姿が浮かんでいる。

「……今日は、タキオンさんの誕生日ですよ」

 ……はて、今日は——
 壁に掛かっているカレンダーを確認すると、毎日デジタル君が付けている鉛筆のバツ印が十二日まで迫っていた。なるほど、四月十三日——今日は私の誕生日か。

「おや、もうそんな季節かい」
「ふふ、そうですよぉ。さぁさぁ! 冷める前にいただきましょう!」
 促されるままに席に着くと、視界に様々な料理が飛び込んできた。

 食卓の真ん中は大きなホールケーキが陣取っていた。大量のイチゴが照明の光を浴びてこれでもかという程紅い輝きを見せている。
 その周りを取り囲むように和洋中のありとあらゆる好物の料理が食卓を埋め尽くしている。
 唐揚げ、ローストビーフ、ポテトサラダ、そして桜でんぶのたっぷり乗ったちらし寿司。いつも私の好物しか並ばない食卓ではあるが、今日は特に好きな料理が多い。

 流石に一日の適切な摂取カロリー量は超えてしまうだろうが、デジタル君のことだから糖質と脂質は出来る限り抑えられているのだろう。彼女の調理技術にはただただ感服するばかりである。
 ……まだ食べてもいないのにそれを口に出したとて、彼女が謙遜することは目に見えていたので、私は料理の前に手を合わせた。
 何より、目の前の料理に私の摂食中枢が刺激されて仕方がなかったのだ。

「いただきます」
「どうぞ~」
 箸を伸ばして唐揚げを口に運ぶ。外の衣のサクッとした食感と中に入っている肉汁たっぷりの鶏肉に思わず頬が緩む。

 彼女は学生の時分から家事がよく出来る子だったけれど、卒業して私と暮らし始めてからは更にその腕を上げてきていると思う。掃除も洗濯も常にテキパキとこなしてしまうし、今私が口にしている料理だって正直プロ顔負けの出来栄えだ。
 ——いや、むしろプロは私の舌の好みを把握していないのだから、その点ではプロ以上と断言してしまって構わない。

 ふと料理から顔を上げると、デジタル君が少し遠慮がちに——だがどこか期待した眼差しでこちらを見つめていた。

「ど、どうですかぁ……?」
「フフ。とても美味しいよ」
「ふぁ……! ありがとうございますぅ……!」
 彼女は嬉しそうな声を上げて、そして両手で顔を覆ってしまった。指の隙間から見える彼女の表情はだらしないほどにニヤけていて、耳なんて忙しなくぱたぱた動いている。

 一頻り感慨に浸った後、彼女はゆっくり居住まいを正してから丁寧に祝いの言葉を紡いでくれた。
「あのあのあの、タキオンさん、お誕生日おめでとうございます……!」
「ああ。ありがとう」
 デジタル君は私の言葉を聞くと照れ臭そうに俯いてしまった。

「ほら、君も早く食べたまえ。折角の料理が冷めてしまう」
「はいぃ……!」
 彼女を促し、私達は目の前の料理に向き直す。

 デジタル君と暮らし始めてから、私が誕生日を迎えたのはこれで二回目だ。去年はこんな豪華な食卓ではなくて、確か物でプレゼントをくれたような気がする。
 私は去年も今年も自分の誕生日のことをすっかり忘れていた。
 学生の時は日付の記憶すら曖昧でトレーナー君に言われてやっと思い出していた。しかしデジタル君と一緒に暮らすようになってから、まだ人並みとはいかずとも、自分と彼女の誕生日を大切にするようになった。

 デジタル君に出会って、こうして仲良くならなかったらきっとこの日を忘れたまま過ごしていたに違いない。
 他人から自分の存在を忘れられてしまうというのはさほど珍しい話ではないと思うが、自分で自分の誕生を蔑ろにする人はそうそう居ないだろう。

 そういう意味でも、彼女は物好きなウマ娘だった。

「デジタル君」
 私が箸を置いて声を掛けると、桃色の睫毛がこちらを向いた。
「いつも、私のことを気にかけてくれてありがとう」
 それは紛れもない本心だった。彼女とこうして暮らしていなければ、今頃私の生活はどうなっていたことやら。

 私が彼女にしてやれることは、こうして感謝の意を伝えることくらいだ。そう思って彼女に微笑みかける。
 デジタル君の存在は私の生命活動の流れを整えて、区切りを与え、滞りがないかちゃんと見守ってくれる。

 私に限った話ではなく、大人になるとそんな人物の存在になかなか出会えなくなるものだ。
 旧来の友人にも会うたびにデジタルは大事にしろ、デジタルは傷つけるなと口酸っぱく言われる。そんなこと言われなくても分かっているというのに、彼女等の目に私はどのように映っているのだろう。

「は、ひゃ、わわ……」
 またしてもデジタル君は顔を真っ赤にして覆ってしまった。

 私は、こんな風にいつまでも出会った頃のような反応を返す彼女が好きだ。単純に身体的反応として興味深いのももちろんあるけれど、この反応をされる度に彼女にもっと甘えたくなってしまう。
 だが、彼女に甘えるべきは今じゃないだろう。ちらし寿司やケーキだって残っている。メインディッシュはまだまだこれからなのだ。
「フフ」
 腹の底を悟られぬよう、自分の欲を軽く鼻で笑って吹き飛ばす。

 今日の私達の夜は、きっといつもより少しだけ長くて甘い。