赤穂屋本館

初めて

 私とデジタル君が交際を始めてから47日目、今日もデジタル君は自発的にキスをしてくれなかった。

 これでも一応は試行錯誤しているのだが。具体的には、私からキスをしたり、ボディタッチの頻度を上げたりなどのアプローチを試みている。その過程での心拍数、発汗量、失神の回数の統計を見るに、徐々に私からのスキンシップには慣れてきたようではある。
 しかしながら、彼女から私に接触してくることは一切なかった。なんでも私を含む『ウマ娘ちゃん』からデジタル君に触れるのは百歩譲って良いとしても、彼女のほうから触れるのは教義に反するのだという。

 ――私は彼女と交際し始めてから、より多くの視点からデジタル君を観察し続けているが、総合的に彼女が私のことを好いてくれているのかどうかについて見失ってしまうときがある。

 デジタル君は私と一緒に過ごす時間は楽しそうに過ごしてくれるのに、私がスキンシップ――主に、手を握る、抱擁、キス等――をすると、途端に私を避け始めるというか、やんわり拒むような態度を示すのだ。……やれやれ、これでは本当に交際しているのかどうか疑わしくなってくるというものだな。
 よく周りの人達は私に対して『倫理観がない』という評価を下すが、流石に人としての心はある。だから、好いてくれていると思っている人にこうやって避けられると、傷付かずにはいられない、というのが本音なのである。

 少しは打ち解けてきたと思うんだがねぇ……私自身の感情としても、私からばかりキスをするんじゃなくて、そろそろデジタル君からキスをしてくれるところを見たいというものだ。

「さて、どうしたものか」
 私はデジタル君についての資料を研究室のデスクに投げやり、呟いた。

 これ以上私だけの手でデジタル君の意識を変えさせるのは不可能だ。ならばここはガラッと環境を変えてやろう――と思い至った瞬間、以前トレーナー君に福引を引かせた際、温泉旅行のペアチケットを当てていたのを思い出した。
「あれだ!」
 あの時はトレーナー君にあげると言ったような気がするが、トレーナー君も私が困った顔の一つや二つ差し出せば譲ってくれるに違いない。まさに僥倖、早速私はトレーナー室へと急いだ。



 ふふ、トレーナー君が良いモルモットで助かった。トレーナー君は私がとにかく困った演技をしてみせると、なんだかよく分からないが、と言った表情をしながら本当に温泉旅行券を渡してくれたのだ。

 手の中にある温泉旅行券を見ながら、デジタル君と旅行に行くところを想像する。

 デジタル君は自分から私に触れこそしないものの、一緒にデートに行くときは心から楽しそうにしてくれる。温泉旅行だ、と言ったら彼女は初めは戸惑うかもしれないが、実際一緒に行き始めると彼女も楽しんでくれるだろう。
 私としてもこの旅行をきっかけに彼女の何かが変わるなら、それはとても喜ばしいことだった。

「よし」
 私は意を決して寮の部屋の扉を開けた。

「ただいま、デジタル君」
「おかえりなさいっ、タキオンさん」
 デジタル君はベッドに座ってスマホを見ていた。彼女の表情が明るくなる。

「デジタル君、君に良いニュースがあるよ」
「良いニュース、ですか?」
 私はデジタル君の側まで近寄り、温泉旅行券の入った細長い封筒を差し出す。

「温泉旅行のペアチケットが手に入ったんだ。君も行くだろう?」
「温泉……旅行……?」
 デジタル君の表情が固まる。

 彼女はしばしば、自身のキャパシティを超えるような出来事に遭遇するとこうしてフリーズしてしまうのだが……まさか温泉旅行と聞いただけでフリーズしてしまうとは。

「あたしが、タキオンさんと、温泉?」
「ああ」
「それってあたしとタキオンさんと一日中いられて、一緒にご飯を食べたりお風呂に入ったりしますよね?」
「するだろうねぇ」
「ちなみに泊まりですか?」
「ああ」
「……それって、一緒の部屋で寝るってことですよね……」
「もちろん」
「ヒュッ」
 デジタル君の表情が無くなった。

「私と一日中一緒に行動するなんて今更だろう。何を怖気づいているんだね、君は」
 私がベッドに座っていたデジタル君の隣にかけると、彼女は目を逸らしてしまった。

「だ、だって、一緒に温泉入ったあと一緒に寝るなんて……」
「……寝るなんて?」
「……………」
 私が追及するとデジタル君は唇をぎゅっと結んで黙りこくってしまった。

 ……デジタル君、君ってやつは……
 私は心の中で呟いて、彼女の手を握る。

 ……それにしても、この部屋で毎日一緒の部屋で眠っているのに。デジタル君の目はぐにゃぐにゃになっていた。

「デジタル君。……悲しいなあ。私はそんなに信用に足らないウマ娘かね」
「ひぇっ!?」
 デジタル君の尻尾が垂直に立ち上がった。

「いくら私だからって、大切なデジタル君が嫌がるようなことは勝手にしないさ。それは約束するよ」
 だからもし良かったら、温泉旅行に行こう。そう続けるとデジタル君は目線を合わせぬまま、こくりと小さく頷いた。彼女の顔面はひどく紅潮していた。



 目的地には思っているよりも早くに着いた。
 というのも、電車での移動中デジタル君が常にニコニコしながら多くの話題を振ってくれるものだから、移動時間で全く退屈することなく到着できたのだ。
 話している様子を見ても、耳、表情、手振り、尻尾、とにかく動くものが全て目まぐるしく動いていた。きっとこれが彼女の素なんだろうなと思うと、微笑ましくてたまらなかった。この旅行で、もっとデジタル君の知らない一面を見られたら。そう思っていた。

 旅行に誘ったときはあんな様子だったのに、デジタル君は旅館についても緊張した様子は見せなかった。
「わぁ!お部屋広いですね!」
「そうだねぇ」
 デジタル君は荷物を置くと、窓の外を見てはしゃいでいる。その様子がかわいらしくて、私はつい笑ってしまう。

「あっ、す、すみません! 一人でテンション上がってしまって」
 デジタル君は顔を赤くして俯いた。

「いいんだよ。それだけ楽しみにしてくれていたということだからね。嬉しいよ」
 私がそう返すと、彼女は驚いたような顔をし、左胸を抑えてそのまま後ろに倒れ込んでしまった。……どうやら、私が『尊い』行動や発言をした際にこうなるらしい。独特な感情表現だという風に解釈するようにしている。

「ところで、デジタル君」
「ひゃい! なんでしょうっ」
 デジタル君はさっと起き上がって私の発言を促す。

「君は、この旅行の趣旨を覚えているかな」
 そう言うと、彼女の表情が少し強張った。
「は、はい……」
「何だったかな?」
「……温泉旅行、ですよね?」
 デジタル君は目線を逸らす。

「そうだ。ということでデジタル君、一緒に温泉に入らないか」
「う……」
 ……やはり乗り気ではなさそうだ。少し胸が痛む。

「別に寮の浴場でも何度か一緒に入ったことがあると思うのだが」
「そ、それは……、たまたまご一緒しただけで、これから一緒に温泉に行くのとは違うというかぁ……」
「ふぅン? 君は私と一緒に入浴するのが嫌なのかな?」
「い、いえっ、そういうわけではなくっ」
 デジタル君は必死に手を振る。

「じゃあ問題ないじゃないか」
「いやいやいやっ、大ありですってばっ!」
 デジタル君が声を荒げる。彼女がここまで大きな声で否定するのも珍しい。

「……ほう、それはどうしてだい?」
「だ、だって、一緒に温泉に入るってなったら……服、脱ぎますよね」
「もちろん」
「そしたら、あたし……その……」
「なんだい? 言ってごらん」
 デジタル君が口ごもる。

「タキオンさんの体見たら、どうにかなるかも……」
「どうにか、とは?」すかさず追い打ちをかける。
「だから、そのぉ……タキオンさんのことが好きすぎて、我慢できなくなっちゃうかもってことですぅ……」
 デジタル君は言い終わるや否や、顔を真っ赤にして覆ってしまった。

 ――我慢。彼女からそのような単語が出るとは思わなかった。
 彼女と私の間に存在していたのは、どうやら不安という大きな壁だったらしい。
 恐らく彼女は、これまで『ウマ娘ちゃん』を信奉し、『ウマ娘ちゃん』を尊重し過ぎるが余り、自分の欲望を抑えて過ごしてきたのだろう。

 また彼女は比較的自己肯定感が低いタイプだと言えるから、彼女は私に対して好意を持っていることを自覚しつつも、表に出すべきではないとして、ここまで『我慢』してきたのではないか――そう私は推測したのだ。……そんな我慢は必要ないというのに。

 確かに思い返してみれば、今まで私が行ってきたアプローチでは、私が彼女に触れるばかりで彼女の意思――デジタル君自身はどう思っているのか――はあまり確認してこなかった。

 今の私達は、とにかく認識をすり合わせる必要がある。それを行う場としては、今の彼女にとって温泉はあまり相応しくないだろう。

「そうかい、分かったよ。それならば温泉は別々で入ろうか」
「えっ! ほ、ほんとですか」
 デジタル君が驚いたような顔でこちらを見上げる。

「約束しただろう、君が嫌がることはしないってね。ゆっくり浸かっておいで」
 私はそう言いながら、散歩に出る準備をすべく外履きを履いた。デジタル君は、なんだか少し飲み込みきれないような顔をしていた。

 

 その後私も入浴を終え、旅館の懐石料理をいただき、二人でテレビを見たりお茶菓子をつまんでいると、いつの間にやら時計はもう零時を回っていた。
「おや、もうこんな時間なのか」
「そろそろ寝ましょうか〜」
 そう言うとデジタル君はテキパキと布団を敷き始めた。きっちり二人分だ。掛け布団を運ぶ小さな背中に話しかける。

「……なぁ、デジタル君」
「はいっ、なんでしょう?」
「布団は一枚でいいんじゃないか」
 デジタル君は尻尾を垂直に立て、持っていた布団をそのままドサッと落としてしまった。

 しまった。どうせ私の方からデジタル君の布団に入るだろうから余計な手は掛けさせないでおこうと思ったが、アクセルを踏みすぎたか。デジタル君は振り返らず、落ちた布団を見つめている。

「……嫌かい?」
 そう聞いても、デジタル君は一寸たりとも動かない。
「……実は、眠る環境がガラリと変わるとなかなか寝付けなくなるんだ。だからデジタル君に側にいてほしいのだが」

 彼女の緊張を解くために、百パーセントの嘘をついた。

 私は寮のベッドでも、研究室の机でも、トレーナー室のソファでも、どこでも寝られる。そのことはデジタル君も知っているはずだ、とすぐに気付いたが、デジタル君はよっぽど余裕がなかったのか、私のその言葉を聞くと僅かに頷いた。

 

 電気を消して、デジタル君が敷いてくれた布団に潜り込む。二人ともしっかり温泉に浸かったからか、布団の中はすぐに温かくなった。
 デジタル君は私に背を向けるような姿勢で横になっている。この距離だと彼女の呼吸の様子は分かるが、心拍数は測れない。呼吸のペースは平均的だが、やや不自然に鼻息が荒い気もする。

「なぁ、デジタル君」
 部屋には私と彼女しかいないのに、どこか張り詰めた空気のせいで思わず声を潜めて話しかけていた。暗闇の中、彼女の耳がぴくりと反応する。

「……なんでしょう」
 背を向けるデジタル君の脇の下に腕を入れ、足も思い切って絡めてやる。

「ぎゃわっ!?!?!?」
 私のお腹にデジタル君の尻尾が当たる形になって、少しくすぐったかったが構わず体を動かしてもっと強く抱きしめる姿勢をとる。腕を折り曲げて、彼女の胸のところで腕を組んだ。

 ――デジタル君はこれでもう逃げられまい。

「た、た、タキ、タ………あば……」
 顔は相変わらず見えないが、明らかに興奮している様子が見て取れる。抱き締めているこの小さな身体が汗ばんできているのだ。

「デジタル君。君はさっき私と温泉に入ると我慢できなくなる、そう言っていたよね」
 彼女の体がぴくん、と小さく跳ねる。

「すみませんアレは忘れてくださいすみませんすみませんすみません……」
「ううン、それは無理なお願いだね。折角君の思いを聞けたんだもの。忘れられるわけないだろう」
「あたしの……?」
 デジタル君が少し頭を傾けてこちらの様子を窺う。私はその一瞬の隙を見逃さなかった。

「ほぎゃ!?」――瞬時に絡めていた腕と脚を解き、デジタル君の体を力づくでこちら向きに回転させる。私は特別体格がいいウマ娘というわけでもないが、デジタル君よりは体が大きいのでこういう時は助かる。
 そして逃げられないように、もう一度彼女を抱き締めてやる。今度は彼女の背中で腕を組む。これで完成。

 ――現在のデジタル君の顔面との距離は5センチメートル程度といったところか。上向きにくるんとカーブした睫毛が忙しなく動いている。
 彼女の感情に引きずられないように、落ち着いて話すことを意識して私は口を開いた。
「実はね、私も同じ気持ちなんだよ。君のことを考えると我慢ならなくなるんだ、デジタル」
「フヒュッ」彼女は目を丸く見開いて固まってしまった。

「君にもっと触れたい。君のことを知りたい。……そう思っているのは私だけなんだと以前までは思っていたんだが……君も同じ気持ちだとわかって、嬉しいんだよ」
 私はそう言って、彼女を引き寄せるようにして頭を撫でる。美しい桃色の髪が私の指の中を流れる。

「……ダメですよぉ、タキオンさん……」
「何がだい?」
「あたしはすぐ調子に乗りますから……だめなんです……」
 口を尖らせる彼女が余りにもいじらしくて、言葉を最後まで聞かずについ唇を重ねてしまった。

「ひゃ!?」
「デジタル。私はね、君の全てを知りたいんだ。今更君の何を知ろうと引きやしないさ。だから教えておくれ。君がどうしたいのか」
「…………」
 彼女は何も言わない。
 ――いや、まだ言えないんだろう。

「なぁ、デジタル」
「はいぃ」
「君は、私にキスしたいと思ったことはあるのかな」
「ひゃ…………あ………」
 彼女はしばらくの間口をぱくつかせるだけだったが、やがてこう答えた。

「…………あります………」
「へぇ、どんな時に?」
「…………」
 彼女はまた何も答えなかった。ただ、彼女の荒い呼吸とけたたましい心臓の音だけが聞こえる。

「私はね、いつも君にキスしたいと思ってるよ」
 そう言ってもう一度口づけをしてやる。
 今回は、先程よりも少し長く。

 少し離れて表情を確認すると、顔面の紅潮に加えて先程よりも目が潤んでいるように思われた。それに口元がきゅっと結ばれていて、何かを堪えているかのようだ。
「……本当にいいんですか? ……タキオンさん」
 彼女は私の背中を掴んでそう確認してきた。ほとんど泣きそうな顔をしている。
「ああ、好きにしたまえ」
 私がそう答えると、しばし逡巡するような表情を見せたあと、デジタルは口を尖らせながら恐る恐る顔を近づけてきた。私は彼女の勇気を尊重して、目を閉じこちらも口を少し開けて待つ。

 数秒後、感触があった。
 唇が触れただけの、本当に何でもないキス。
 しかしそれは、私が彼女と交際し始めてから、最も尊い瞬間であった。

 目を開けると、既にデジタルは布団の中に潜り込んでいた。布団の中からくぐもった声が聞こえる。

「デジたんは、タキオンさんのことが大好きです」
「私もだよ」
「でも、やっぱりあたしはわがままなので、ずっと我慢していた分、いっぱい甘えちゃいますよ」
「もちろんだ。好きなだけ甘えたまえ」
 私の足に、彼女の尻尾の先が絡む。

「……じゃあ、今日は一緒に寝てくれますか」
「いいとも。おいで」
 そう言うとデジタルは、黙って私に抱きついてきた。

 その日私たちは、抱きしめあって眠った。

 

 次の日。
 昨夜は気付かなかったが、終始汗だくだった私達は朝風呂に入ることとなった。……今度はもちろん、二人で一緒に、だ。