赤穂屋本館

人参ポトフ

 ——マックイーンさん、レースもお料理も焦りは禁物ですよ。

 一人で料理をする時は、イクノにいつか教えられたこの言葉をいつも頭の中で思い返してからキッチンに立つことにしている。メジロ家に住んでいた頃や寮生活の頃は、自分で料理をするという経験がほぼ皆無だった。メジロ家でも寮でも、その必要はなかったからだ。

 しかしイクノと暮らすようになってからは、彼女に料理の役割を全て任せるわけにはいかなかった。イクノは「不得手なことはしなくても良い」と言ってくれたものの、自分だってもう周りの人間に甘えられるような年齢ではなくなっていたし、何より彼女にばかり無理をさせるわけにはいかなかったからだ。

 初めは失敗作も多かったけれど、イクノのおかげで最近は少しずつ安定して美味しい料理が作られるようになってきたと思う。落ち着きがあるのにお茶目なところもあって——いつでも優しいイクノのことを、マックイーンは心から愛していた。

 イクノと一緒に雑貨屋さんで選んだアイボリーのお鍋の中に、人参と玉ねぎとじゃがいもが浮かぶ。コンソメでできた湯に浸かって泡に揉まれる野菜達は、まるで温泉に浸かっているかのようだ。

(……イクノさんと、温泉……)
 そんなことを考え始めた瞬間、その場はたちまち穏やかな温泉となった。端正な三つ編みを解き、眼鏡も外してしまったイクノが尻尾を揺らしながらぺたぺたと音を鳴らし、マックイーンの前を歩いていく。
 ——マックイーンさん、一緒に入りましょう。ほら——そう言ってイクノはマックイーンに手を差し出した。

「そ、そそ、それはいくら何でも早すぎるのではなくてっ!?」
 思わず握った拳を近くのキッチン台に振り下ろしてしまった。ガンと鈍い音が響き、痺れるような衝撃が拳から手首、腕に伝わる。

「マックイーンさん、どうかされましたか?」
 イクノの心配そうな声が部屋の向こうから聞こえてきて、マックイーンはハッと意識を取り戻した。ただでさえ普段からイクノに世話を焼かれているというのに、これ以上彼女に心配させるわけにはいかない。

「い……いえ! 先程味見しましたら火から下ろすにはまだ早い気がしまして……」
 咄嗟の嘘だ。マックイーンは料理の味見などしていなかった。背中に罪悪感を背負いながら鍋の様子を窺うと、スープはぐらぐらと揺れ、野菜達は半分蕩けかかっていた。

「そうですか? かなり出来上がっているように見えますが」
「きゃっ!?」
 隣から突然声が聞こえて慌てて振り向くと、イクノが同じく鍋の中を覗き込んでいた。

「確かにお料理に焦りは禁物とはお教えしましたが——、これはかなり出来上がっているかと……」
「たっ……確かにそうですわね!」
 急いでコンロのツマミを垂直に戻して火を消す。不思議そうに見つめるイクノの瞳から逃れるようにスープと具を取り分け、ダイニングテーブルに並べた。眼鏡越しでもこれ程威力のある瞳なのだ、本当に温泉に行くことになったらどうしよう。

 
「さぁ、出来ましたわ!」
「ありがとうございます、マックイーンさん」
 自分が料理を並べている間に、イクノはお箸やスプーンといったカトラリーを並べてくれた。いつものことだがこういう細かいところにまで気を配ってくれるのは流石だ。

「それでは、いただきましょう」
 そう言って手を合わせると、イクノは真っ先にマックイーンが作った人参ポトフを一口掬って口に運んだ。イクノがゆっくり味わっている様子を、マックイーンは不安な気持ちで見つめる。マックイーンは多少野菜が煮崩れしてしまっていても美味しく食べられるが、イクノも同じであるとは限らないからだ。

「——うん、美味しいですね」
「まぁ、本当ですの?」
 人参を飲み込んだイクノが目尻を下げて微笑んでくれた。その言葉を聞いて、マックイーンはほっと胸を撫で下ろす。

「はい、野菜にスープの風味がよく滲みていて美味しいです。マックイーンさん、料理がお上手になりましたね」
「!!」
 突然のイクノのお褒めの言葉に、胸がキュンとときめいた。

 イクノは昔からマックイーンのことをよく褒めてくれた。体重が減ったとき、スイーツを一週間我慢できたとき、レースに勝利したとき。イクノは必ず優しい笑顔を浮かべて、「すごいですね」「頑張っていますよ」と言ってくれた。その度にマックイーンの心の奥底にある柔らかい部分が優しく撫でられるような気持ちになった。
 それは学園を卒業した今も変わらない。彼女はこうして自分の努力を認め、必ず褒めてくれる。だからこそ、マックイーンも彼女のことを心の底から尊敬し、敬愛しているのだ。

「あ……、ありがとうございますっ」
「ふふ」
 目の前に座るイクノには、どうやらこちらが恥ずかしく感じているのがバレているらしい。緩む頬を隠すように俯き、自分もじゃがいもを一つ口に入れた。

「あら……、本当ですわ! 美味しい……!」
 じゃがいものホクホクさを残しつつ、しかし食感はしっかりと残っている。そしてコンソメの優しい旨味と野菜の甘さが絶妙なバランスで絡み合っている。我ながら良い出来だ。

「……マックイーンさん、やはり味見はされていなかったのですね?」
「へっ……? あっ、あっ……!」
 更に顔面に体温が集中するのが分かる。元々下手な嘘ではあったものの、こうもあっさり見破られるとは思わなかった。メジロ家では品のある振る舞いや所作を多く教えていただいたというのに、昔からどうもイクノの前では上手くいかなかった。彼女にはどうしても敵わない——そんな認識がマックイーンの中にはあった。

「すみません……私イクノさんに嘘を……」
「ふふ、いいんですよ。ほら、冷めちゃいますから一緒に頂きましょう」
 イクノが再び優しい笑みを浮かべて、またポトフを一口掬った。まだまだ拙いであろう自分の料理を食べてくれているという事実が堪らなく嬉しくて、イクノに対する愛情が更に溢れ出るかのような気持ちだった。

 彼女に倣って二口目のポトフ——今度は人参を口に入れると、人参とスープの甘みが口の中で融け合い、幸せな気持ちになる。イクノといると、心がぽかぽかしたものに包まれるかのようだ。こんな温かくて幸せな日々がいつまでも続けばいいのに、とマックイーンは心の内で密かに祈った。