赤穂屋本館

喋々喃々

「わぁ〜〜〜!!! カイチョー見て! パンダだよ!!」
 トウカイテイオーが跳ねるような声を上げて駆け出して行った。

 テイオーがめがけている先にはちょっとした人溜まりができている。今の時間帯が朝であることを鑑みるとやはり人気スポットなのだろう。
 柵の前まで来ると、彼女は柵から身を乗り出さんばかりの勢いで覗きこんだ。

「こら、テイオー危ないぞ」
 テイオーを追ってやってきたシンボリルドルフは前のめりになっている彼女を柵から引っぺがした。テイオーは逆らうように少し暴れるふりをする。

 振り返って「もー!危なくないもーん!」と頬を膨らませるものの、彼女は観念して落ち着いた姿勢になった。
 全く、素直なのか天邪鬼なのか分からない。

「ねぇ、カイチョーもパンダ見て!」
 テイオーの指差す先にはずんぐりむっくりのパンダが一頭、日差しを避ける形で木の影に収まり、全身を広げた格好で転がっていた。
 周りの来園客達も目の前にいるパンダに夢中で、カワイイカワイイとしきりに褒める子供や、写真を撮る若者、微笑みながら様子を見守る老夫婦など老若男女がそのパンダの怠惰な姿を見守っている。

 テイオーも例外ではなかった。彼女は視線を動かさずに言う。

「ボクパンダ見るの初めて! カイチョーは?」
「私も初めてだ。東京では人が多くてなかなか見られないからな」
「えへへっ、そうなんだ。 カイチョーと一緒にパンダ見られて嬉しいなぁ」
 そう言うとパンダからこちらに視線を移して純真無垢な笑みを溢した。ああ、なんて愛らしいのだろう。

「私も、テイオーとここまで来られて嬉しいぞ」
 シンボリルドルフは、こちらを見上げるテイオーの耳の付け根辺りを愛おしげに撫でる。青いリボンが手に触れる。

 彼女は撫でられることを素直に受け入れながら、悪戯な顔で言った。
「ふふ。カイチョー、まだ終わりじゃないからね? ボク達『動物園ハシゴ』するんだから!」
 彼女の言葉に思わず手が止まる。

「動物園ハシゴ…?」

 もしかして、今日は一日中動物園なのか?

 ★

『動物園ハシゴ』の道すがら、シンボリルドルフは不安な気持ちを出来る限り隠しながら尋ねる。
 車窓には四角く切り取られたような建物ばかりが続く。
「なぁテイオー、本当にもう一つ動物園を周ろうと言うのか…?」

 隠したつもりが声色に表れていたのだろうか、「まさかもう疲れたとでも言うつもり?」と言わんばかりの顔で
「うん。 だって神戸には二つも動物園があるんだよ? せっかくここまで来たなら堪能しないと損じゃん!」
 と言い切った。

 彼女の言うとおり、神戸には大きな動物園が二つある。
 テイオーはこれらを一日で周りきろうというのだ。
 いくら彼女のお願いとはいえ、体力が持つか心配だ……。

『まもなく、先端科学センター、先端科学センター。神戸動物園、スーパーコンピュータ前でございます。』
 神戸動物園、という言葉を聞いてテイオーの耳が跳ねる。

「ほらカイチョー着いたよ!ねぇねぇ、ぼーっとしてないでさ、行こ!」
 車輌がふしゅうと密度の高い空気を抜かして重い扉を開けた。
 にっこり笑ったテイオーが手を差し出す。

 先端科学センター、スーパーコンピュータ前。
 神戸動物園と余りに釣り合いの取れていない文字列たち。これらがどうして併存できているのが不思議だ。
 本当にこんなところに動物園などあるのだろうか、私はこれからの動物園巡りに耐えられるだろうか、と不安な気持ちのまま差し出された手を握り、歩き出した。

 朝からパンダに散々悶え倒したと言うのに、テイオーの体力といったら無尽蔵なのではないか、と思われるくらいはしゃぎにはしゃぎ倒していた。

「ねぇカイチョー! ウサギさんがいっぱいいるよ!」
「カイチョー! お花がたくさん咲いてる!!」
「カイチョー見て! 鳥がいっぱい飛んでる! あ、待てー!!」
「カイチョー! 羊がいっぱい走ってる!! ねぇボクらも走ろうよ!」
「カイチョー、いつまでドクターフィッシュのところにいるつもり? もう行こうよー!」

 正直言って、シンボリルドルフの方はかなり疲れていた。
 いくら可愛いテイオーと一緒だと言えど、こちらにも限界というものがある。
 しかし、『皇帝』の異名を取る彼女がただで疲れ切った顔を見せるわけにはいかない。

「そうだな。このウサギ達、一緒に触れるみたいだぞ。」
「ああ、まさにここは花鳥風月という言葉がぴったりだ。」
「テイオー! 危ないから鳥じゃなくて前を見るんだ……!」
「テイオー、これは催し物で…って、待て! テイオー!!」
「すまない、もう少し休ませてくれ……」

 彼女はテイオーが自分に話しかけてくるたび、一つ一つ丁寧にコメントを返してやるのだった。

 ★

『動物園ハシゴ』は時間さえも容易く疲弊させ、空を暗ませる。
 その黒い空を、金属の軋む音を聞きながらゆっくりと昇ってゆく。

「カイチョー、今日は楽しかったねっ!」
 テイオーは今日イチの笑顔を咲かせた。
 照明は仄かで表情をハッキリと確認できたわけではなかったが、シンボリルドルフはそう確信した。

 今日一日で夏合宿で生徒の監督をした日並みの労力を使ったかのような気分だったが、テイオーの笑顔で少し気持ちが緩む。

 少しずつ、光り輝く神戸の姿が見えてきた。
 光に呼応するように海が黒くささめいている。

「私も今日一日楽しかった。ありがとう、テイオー」
 今日の疲弊を最後の体力を使って精一杯隠しながら、微笑んで見せる。

 少しテイオーは驚いた顔をしてしばし俯いたあと、急に抱きついてきた。
 周りが軋む音を立て、少し足元がぐらつく。

「わっ。危ないぞ、テイオー」

 テイオーの重みに包まれる。少し温かいのが心地良く、背中に腕を回してやる。
 ひとしきり抱きついた後、上体だけ放すテイオー。
 目が潤んでいる。
「こっちこそ今日はありがとう、カイチョー。…本当は疲れてたんでしょ」

 こちらが戸惑いから回復する隙も与えぬまま、
「大好きだよ」

 テイオーはそのままシンボリルドルフのお腹に顔を埋める。
 そのまま彼女は何を言っても反応しなくなってしまった。耳を少し撫でてやると彼女の体温が伝わってくる。さきよりも温かくなったようだ。
 手を握ると身体が少しだけ跳ねたようだが、それからはまた狸寝入りが始まった。

「…全く、困ったやつめ」

 テイオーの柔らかい頭の横に、神戸の街並みが六甲の山々に連なるように光るのが見えて、なんて横長な夜景なのだろう、とシンボリルドルフは手を握ったまま考えていた。

 二人の乗る観覧車が頂点に達しようとしていた。