赤穂屋本館

宝石

 4月1日。今日はトレセン学園の入学式。

 学園には満開の桜が咲き誇り、新入生を祝う紙吹雪のようにひらひらと花びらを散らし、地面を桜色のカーペットのように彩っていた。
 そのカーペットの上をぴかぴかで少し窮屈な制服を着た新入生達が歩いていく。
 新入生は期待と不安を湛えて、案内されるがままに体育館まで流されていった。

 体育館に詰められた新入生たちは少し緊張しながら、登壇している生徒会長の話に耳を傾ける。
 彼女、カワカミプリンセスもその新入生の一人だった。
 シンボリルドルフと名乗った生徒会長は落ち着きを見せながらも堂々とした口調で語る。

「――さて、新入生の諸君に私からお話ししたいことがある。君たちはトレセン学園に入学したばかりで、今は恐らく熱意や野心に満ち溢れていることだろう。
 しかし――その心に灯った火が消えてしまい、残念ながら学園を去ってしまった者も私は多く見てきた。だからここで諸君に伝えておきたいのは、皆各々で自分の中に絶対的な目標を定めてほしいということだ。」

 カワカミはハッとした。
 突然、会長の言葉が身近なものとして感じられたのだ。

「心の中に揺らがぬ目標を定めることによって、辛い時の支えとなってくれるだろう。目標は何でもいい。具体的なレースの目標やこういうウマ娘になるぞというのでもいいし、先輩のウマ娘や憧れの人物など、多岐に渡るだろう。ぜひ自分なりの目標を決めてほしい。」

 その言葉を聞いてカワカミはピンと来た。
(私のトレセン学園での目標はプリファイのようなお姫様になること。これ一択ですわ!)

『爆走猛姫☆プリンセスファイター』、通称『プリファイ』。朝の時間帯に放映されるアニメーション番組であり、劇場版も上映されるほどの人気作品だ。
 カワカミはこの作品に強く感銘を受けており、彼女自身の生き方でさえプリファイの影響を強く受けている。
 そう、彼女の幼い頃からの夢はプリファイのように華麗で、優雅で、勇ましいお姫様になることだった。

(そうと決まれば私、このトレセン学園で立派なお姫様になってみせますわ!)

 彼女はこれからの学園生活に思いを馳せ、自らから溢れる闘志を膝の上の握り拳で噛み締めながら生徒会長の話を聞いていた。
 姫になりたい。誰よりも強い力を得て、この拳で全てをねじ伏せたい。そしてゆくゆくはプリファイのように気高くパワフルなウマ娘になりたいーー!!

 ★

 カワカミプリンセスが入学して1ヶ月。
 桜の花びらは全て散ってしまい、木々には青々とした葉っぱがついていた。
 気持ちのいい日光が差し込んでいて、暖かい日だった。

「はぁっ…はぁっ…!」
 カワカミはその日、同期のウマ娘たちと併走トレーニングを行っていた。

「負けましたわ〜〜!!」
 彼女の甲高い声がターフに響く。力強く叫んだ彼女のもとに併走相手のウマ娘が駆け寄ってきた。

「ふふ、私の勝ちだね」
「ぜぇ…あなた、入学した時からすごく強くなりましてよ…何か秘訣でもあるのかしら?」
「秘訣?そうだねー…」

 併走相手のウマ娘はしばし悩んだあと、思いついたように言った。

「私、最近憧れの先輩がいるんだ。私もその先輩みたいになりたくて、目標レースとかも决めたんだ。まぁ…私はまだデビューもしてないけどね」
 彼女は照れ臭そうに、しかしながら少し誇らしげに語った。

「まぁ…!」
 彼女の話を聞いたカワカミは右手をそのまま自分の頬に寄せ、少し体をくねらせて言った。

「貴方にも憧れの方がいらっしゃるのね…!」
「そうなんだ。その先輩は重賞をいくつか獲ってるのはもちろんなんだけど、それで驕ることもしないし、私みたいなひよっこに対してもすごく優しくしてくださるんだ〜。」

 同期のウマ娘はその先輩のことを思い浮かべているのであろう、空を見ながら目をキラキラと輝かせていた。

「その先輩の方、なんて素晴らしいのでしょう!!力をお持ちになっているだけでなく、慎ましさや優しさまで兼ね備えられているなんて…!」

 先輩ウマ娘を褒めちぎるカワカミの言葉を聞いた同期のウマ娘の表情はどんどん明るくなっていく。

「まるでプリファイのようなお方ですわ〜!!」

「……え?」

 二人の間に静寂が訪れる。

 カワカミにはその静寂の意味が読み取れなかった。きょとんとする彼女。

「あら?どうかなさいまして?」
「え……あ……いや、プリファイに喩えられると思ってなくて……」
「……? はっ! まさかプリファイをご存じないのかしら?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」

 同期のウマ娘が困惑の表情を浮かべるのを見て、カワカミはさらに訳がわからなくなっていった。

「……プリファイ、好きなんだ?」

 同期のウマ娘は苦笑いを浮かべながらカワカミに尋ねる。

「ええ!私幼い頃にプリファイを拝見してから今までずっとプリファイのファンで……いえ、私ただのファンなんかではありませんわ……私、プリファイのようなお姫様になるべくこのトレセン学園にやって参りましたのですわ!」

 少し引き気味になってきた同期のウマ娘をよそに、カワカミはやや早口にプリファイへの熱意を語る。

「……へ、へぇ〜……そうなんだ……。私プリファイが好きって言ってる人、久しぶりに見たかも……」
「そうかしら? 確かに今の朝の時間帯には別のアニメも放送されてますから、今の子は別の番組をご覧になっているのかも……?」
「いや私、カワカミと同い年だけど……。」

 同期のウマ娘がイヤイヤと手を横に振る。

「私もプリファイのことは知ってるけど……見てたのは10年前とかだよ。もう私は……卒業したかな」

「そつぎょう……??」

 ますます意味がわからなくなってきた、と言わんばかりの表情をするカワカミに、同期のウマ娘はこれ以上彼女に説明する勇気を失いつつあった。

「……とにかく私はプリファイは最近は見てなかったから、思い出すのに時間がかかったんだ」
 同期のウマ娘は目を逸らす。

「あら〜、そうでしたのね!ではこれを機にもう一度ご覧になってはいかがかしら?」
「う〜ん、考えとくよ。じゃあ今日は併走してくれてありがとう。私は先輩とトレーニングする約束があるから。じゃあね〜」

 同期のウマ娘はそそくさとその場を離れてしまった。

「ごきげんよう、ですわ……」
 同期のウマ娘に向かって手を力なく振る。
 一人ぽつんと残されたカワカミは『卒業』の意味についてぼんやりと考える。
 段々と熱くなってきた皐月の日光がカワカミの後頭部をじりじりと突き刺していた。

 ★

 カワカミが入学して1年近くが経った。
 あれからのカワカミはもう快進撃といって間違いなかった。デビュー戦で1着、その後も様々なレースで勝利を収め、重賞もいくつか獲得していった。

 彼女はレースで勝利を収めるたびウィナーズ・サークルで、
「どっしゃぁぁぁあああああーーーーーー!!!!!」
 と雄叫びを上げて人々の注目を集めていた。

 そんな彼女が学年で注目を浴びるのも無理はなかった。

 2階の女子トイレ。じめっとした空間。湿気に噎せそうになる。
 カワカミは個室に入っていた。
 薄暗い箱。そこにクラスの女子たちの会話がやって来た。

『カワカミプリンセス、この前のレースでも1着だったんだって』
『そうなの?すごいね〜。私はまだデビューすらまだなのに』
『しかもそれってG Iだったんでしょ?』
『げー。強すぎっしょ』

 リップクリームなのか口紅なのか、カシャというキャップの音が聞こえる。

『なんかさ…あの子って…あんまり落ち着きがないんでしょ?この前も壁に穴開けたんだってさ』
『穴!?』
『なんかいっつも「姫たる者!」って言ってんのにね。壁に穴あける姫なんかいる?』
『あはは』
『確かに〜』

 自らのスカートを握る力が強くなる。スカートはぴりぴりと悲鳴をあげていたが、そんなこと知っちゃこったなかった。

『しかもいっつもプリファイの話してるよね。いつのアニメだって』
『うわ、それ思ってた。こっちはガチでやってんのにさ、今更プリファイごっこかよって』
『あはは!それうけるー』
『てかさー』

 笑い声が遠ざかっていく。
 カワカミは呆然としてしばらくの間立ち上がることができなかった。
 トイレの曖昧な臭気が鼻にこびりつく。

 ★

 プリファイ。
 それは私が幼い頃に見つけた憧れ。理想。
 言わば私の心の中にある宝石のようなもの。
 いつでもキラキラと輝いていて、暗い私の足元を照らしてくれますの。
 プリファイがひとたび「変身♪」と叫んだら可愛い勝負服に包まれてダークウマ娘をぶっ飛ばしてくれるように、私はプリファイのことを思い出すだけで全身に力が溢れて、モリモリと勇気が漲るようですわ。
 その時私の心は煌めいて、まるで電撃のようにだって走れますの。

 私に希望を、夢を与えてくれたプリファイみたいなお姫様になりたい。
 レースでもバリバリ勝って、プリファイに恩返しをしたい。
 宝石のように輝くプリファイのように、私も輝いてみたい。

 でも、皆様はこう仰っていましたわ。

『なんかいっつも「姫たる者!」って言ってんのにね。壁に穴あける姫なんかいる?』
『こっちはガチでやってんのにさ、今更プリファイごっこかよって』

『もう私は……卒業したかな』

 ……『卒業』……
 私のこの気持ちって、『卒業』すべきものなのかしら……
 私って子供っぽい? 幼稚?
 では私はプリファイを『卒業』したら、何を追いかけて走ればいいの?
 ない、私には、プリファイ以外の目標が……私って実は空っぽな……
 私がなりたいお姫様って、……

「カワカミ!」

 担当トレーナーの声が耳に響く。
 カワカミは現実に引き戻されて目を見開いた。

「カワカミ、さっきから上の空みたいだけど、大丈夫? もうすぐパドックだよ。」

 そうだった。
 今日は大事なエリザベス女王杯の日。
 控室で担当トレーナーに勝負服の最終チェックをしてもらっているところだった。

 彼女は特にこのエリザベス女王杯に思い入れが強い。
 昨年彼女がデビューしたばかりの頃担当トレーナーと一緒に観に来た、思い出のレース。
 初めて生で観るクラシック級の先輩達の姿には強く心を打たれたものだ。
 いつか自分もこんなふうに、女王を戴冠したい。そして理想のお姫様に近づきたい。
 そう思ってこの日まで努力を重ねてきた。

「え、ええ……。大丈夫ですわ! 私いつでも行けますわよ!」

 カワカミの声色は勇んでいるものの、眉毛が下がってしまって力のない顔になっていた。
 担当トレーナーはそれに気がついていたが、1年数ヶ月しか彼女に指導していない今、彼女の不安に完璧に寄り添うことは難しかった。

「そっか……。 カワカミ、今日は頑張ってね。なんてったって、今日は待ちに待ったエリザベス女王杯なんだから」

 トレーナーは彼女に合う言葉をその瞬間だけでは見つけられず、月並みの言葉しか投げかけられなかった。

「ええ……。もちろんですわ! 絶対勝って、女王様になるんですからっ!」
「ふふ、頼もしいね」

 彼女の調子が少し持ち直したようだ。トレーナーはそれで少し安心してしまい、そのまま彼女を召集に送り出してしまった。
 カワカミの背中が小さく見えた。

 その日、彼女の順位は12着だった。
 1着でゴールしたものの、先行集団を追い抜かそうと彼女が加速し始めたとき、他のウマ娘に接触してしまったのだ。
 審議の上、彼女は降着処分とされてしまった。

 それからカワカミはどのレース――重賞レース、学園の模擬レースなど――に出ても結果は振るわなかった。

 デビュー当初からカワカミを応援していた者たちも、落ち込んでいく彼女の様子を見てファンを降りて行った。
 カワカミは、もうすっかり走る気力を失ってしまっていた。

 ★

 ある日の夕方、カワカミは一人であてもなくとぼとぼとトレーニングコースを歩いていた。
 もう12月だ。長袖のジャージがないとかなり寒い。
 トレーニングコースの芝は、やる気のない夕陽を受けて柔らかい光を返していた。まだ5時くらいなのにもう日がかなり短くなったな、とカワカミは考えていた。

 トレーニングに励むウマ娘たちの声や走る音が聞こえる。以前ならいい刺激になって闘志を漲らせていたであろうが、彼女にもはやそんなハリは残っていなかった。
 彼女は走る気力もなく、観客席に座ってぼんやりとトレーニングに励むウマ娘たちを眺めていた。

(皆、すごい。前に誰かがいてもいなくても、あんなに一生懸命に走れるだなんて…… でも、私は…)

 私は、今もトレーニングをしていない。

 彼女の心に自責の念が積もってゆき、大きな瞳に徐々に涙が溜まっていく。ふと、あるウマ娘の姿が目についた。
 というのも、視界の中でそのウマ娘が盛大に転んでしまったから目についたのだが。
 その転倒したウマ娘に目を奪われたのはカワカミだけではなかったようで、コースにいた何人かのウマ娘もそちらを見ていた。

(ああ…)

 カワカミを含む何人かが緊張した視線を投げかける。次の瞬間そのウマ娘はむくりと立ち上がって顔面の土を腕で拭いながら、

「はぁあああああ!!!!」

 と叫んで、また走り出した。
 その走りはその日トレーニングコースにいたどのウマ娘よりも鋭く、キレがあるものだった。鹿色の髪が靡く。
 吹き込む乾いた師走の風に抗って、いつか空に辿り着きそうな走り。

 他のウマ娘はその様子を確認するとまた各々のトレーニングに戻っていったが、今のカワカミにはさきの様子が非常に印象深く感じられた。
 壁にぶつかってしまって歩みを止めてしまった自分と、一度転んでしまってもなお走ることを諦めないそのウマ娘。
 その姿が彼女には、

「あの方こそ、真の目指すべき目標なのだわ……!!」

 幼き頃に見たプリファイに次ぐ、彼女にとって二つ目の宝石のように見えた。
 カワカミにとってこの出逢いは運命のように思えた。
 あのお方なら私の行く道、走るべき先を照らしてくれるはず。

 カワカミはあの日以来プリファイを『卒業』しなければならないと考えていた。

(私が負けたのは、私が幼いから。皆様もっと具体的な目標を定めているのに、私ときたらアニメのキャラが目標だなんて……。もっと皆様と釣り合うように、皆様のようにもっとハッキリした目標を立てるべきですわ)

 そう思っていた矢先であったので、彼女にとってまさにこれは僥倖。考えるよりも先に足が動いていた。トレーニングコースまで駆けて、少し立ち止まっていたその鹿色の髪のウマ娘に話しかける。

「あの、私、カワカミプリンセスと申します! ぜーっ、ぜーっ…… ぁ、初めまして!! あの、私貴方様の走りがすごく気に入ってしまいまして!! よろしければお名前をお聞かせいただけますでしょうかっ!!」

「え……?」

 そのウマ娘は少し訝しげな顔でカワカミのことを頭から足元まで全身ちらっと見た後、満足げな顔でこう言った。

「ふぅん、よろしくってよ。私の名前はキングヘイロー。あなた、カワカミプリンセスと仰っていたわね。」
「はいっ!」
「カワカミプリンセスさん。どうして貴方は私の走りに惹かれたのかしら?」
「ズバリそれは……直感ですわッ!!!」
「……直感?」

 キングヘイローはきょとんとした顔でカワカミプリンセスに聞き返す。

「私の直感がこう申してますの。キングヘイローさん、貴方は私の理想に最も近いウマ娘だと!! だからお願いします、私とどうかお友達になってくださいましっ!!!」

 カワカミは頭を深く下げた。
 しばしの静寂が訪れる。
 彼女がしまった、流石に突然過ぎたかも、と僅かに後悔した瞬間、

「おーっほっほっほ!カワカミさん、貴方って面白いのね。いいわ、これからキングに一生着いてくる権利をあげるっ」

 彼女の高笑いが響いた。キングは非常に満足気な顔をして自らの顎をくいっと前に遣る。

 カワカミはキングの言葉を聞いて頭を上げ、潤んだ瞳でキングを見上げた。カワカミの言葉を待つ前にキングは言う。

「貴方には早速キングの併走に付き合ってもらうわよ。準備はよろしくて?」
「は、はいっ!!!」

 トレーニングコースにカワカミの返事が響いた。
 今まで冷たかった指先に体温が宿って、脈打つのを感じていた。

 ★

 それからカワカミは、キングとよく過ごすようになった。
 キングを讃えるキングコールを会得し、キングとともにお茶会やパーティに出席し、もちろんキングと一緒にトレーニングも毎日欠かさずこなした。

 トレーニングについては主にカワカミの方が気合い十分で、お互いの担当トレーナー間でも連携を取り合って進められた。
 お互いの距離適性は異なるものの欠点を補い合えるということで、併走トレーニングが頻繁に行われた。

 キングは後輩のカワカミ相手でも全く容赦せず、いつも本気で走っていつも完膚なきまでに彼女を打ちのめしていた。それは適正距離であろうとなかろうと関係なく、だ。

「おーっほっほっほ!! このキングに追いつこうなんて100年早いのよ!!」
「ぐぅ〜〜!! 100年経ったらもう走れないですわっ!!」

 高笑いするキングの傍ら、カワカミは下唇を噛みながら地団駄を踏んだ。

「でもカワカミさん、かなりフォームが整ってきたわよ。しかも今の差し足のキレ。あなたの適正外の距離で出せるなんて、成長してきたわね!」
「ほっ……本当ですの!??」
「ええ。よく頑張ったわね。キングから褒められる権利をあげるっ」

 キングから褒められる権利を賜ったカワカミは両手を頬に当て、顔を紅くしてしまった。

「はわぁ…!!ありがたき、幸せですわ〜〜!!!」

 カワカミは真っ赤な顔のまま一目散にコースに駆けていった。
 その様子は――恐らく彼女が今までに出してきたスピードの中でも最上級の速さだった。土埃が彼女の周りに舞う。

「ちょ……!! えっ、あの子早すぎでしょ……」

 キングはどんどん遠ざかるカワカミの後ろ姿を見てぽつりと呟いたのだった。

 ★

 キングとトレーニングを行い始めてから、カワカミは今までとは比べ物にならないくらい練習に励んだ。
 薄暗い年の暮れの日も、爽やかな初春の日も、厳しい晩冬の日も、二人はトレーニングに励み続けた。
 少しずつではあるが二人とも実力を伸ばしてゆき、それは確実に自信としても蓄積されていった。

 年が明けて次の春がやってきた。
 二人はともに別々の重賞レースに出走。

 キングヘイローはG Iレースで1着を獲得。
 彼女は短距離の王者の座を欲しいままにしていた。

 一方カワカミプリンセスは年が明けてもレースの成績は振るわず、入着止まりになるレースが続いていた。

「はぁ……」

 ある日の昼休みの食堂で、カワカミはデミグラスハンバーグをフォークとナイフで分けながら溜息を吐いた。
 ハンバーグでソースをいくら拭ってもどろどろと逃げてしまうので、彼女は観念して大きな肉の塊を口の中に放り込んだ。

 隣の席ではキングはAランチ定食のトンカツを箸で小さく割っていた。
「あら、どうしたの?ため息なんかついちゃって」
「あ……!ごめんなさい……」
 自分が溜息を吐いていたことに気がついていなかったカワカミは、キングに指摘されて耳を寝かせてしまった。
 カワカミはそのまま俯いて皿に乗っているプチトマトを、ソースのついたフォークでコロコロ動かす。

「カワカミさん、最近様子がおかしいわよ?」
「え…?!そそそ、そうですかしら?私はいつも通りですわっ!」
 大袈裟に身体を動かしてみせるカワカミにキングは、「ふーん、本当かしら……?」と疑惑の目線を投げかける。

「でもカワカミさんったら、この前のお茶会では一つもティーカップを壊さなかったじゃないの。やっぱり貴方、何か悩んでるんじゃないの?」
 カワカミは、キングとのお茶会で毎回平均1~2個ティーカップを破壊している。

「えっ!? あ、あれは………わ、私、一人でティーカップを壊さずに持つ特訓をしましたの! だから……っ!!」

「カワカミさん」
 キングが呟いた。

「そんなふうに何かを取り繕ったり隠そうとするなんて、カワカミさんらしくないわよ……」
 キングは俯いてぽつりと呟いた。
 カワカミの、プチトマトを弄る手が止まった。

「……ごめんなさい、少し取り乱してしまったわね。」
 キングは落ち着いた様子で箸を進め始めた。彼女はキャベツの千切りを箸で掴んでいた。

「カワカミさん、無理に話せとは言わないけど……何か悩みがあったら言うのよ?……このキングが貴方に話を聞いてあげる権利をあげるんだから」
 いつものキングの様子とはまるきり違う、少し苦笑いしている様子をカワカミはぼんやりと見つめていた。

 私ったら、本当に情けない。

 キングさんに気を遣わせてしまった。
 レースに出ても出ても勝てなくて、ファンの方にも失望されて、キングさんにお願いしてトレーニングをしこたまつけてもらっても勝てなくて、同期の子達はレースに勝っている子もいて、情けない。
 プリファイは『卒業』してキングさんを目標にして頑張ってきたのに。
 そのキングさんにも呆れられてしまった……。

 ナイフを握っている右手に力が入る。ナイフと皿がぶつかって、微かに嫌な音が鳴った。
 頭はぐちゃぐちゃだったが、辛うじて右手を浮かせて音がもうこれ以上鳴らないようにした。
 右手にさらりとした液体が触れる。
 涙だった。

「え……」

 息がうまくできなくなってきた。
 肺が思い通りに動かない。
 そのかわりに肩が勝手に上下に動いた。

 キングが自分の姿を見て何かを言ってくれているようだったが、耳には入ってこなかった。
 カワカミはこうべを垂れ、自分の腿の上で握り拳を作った。
 握り拳の上に涙が一粒、二粒、次々と落ちてくる。
 いつもの食堂なのに、視界は暗く感じられた。

 もうだめだ。こんな風に公衆の面前で、キングさんの前で情けなく泣いて、もうだめだ。
 もう一緒にトレーニングしてくれないかもしれないし、ひょっとしたらもうお話もしてくれないかもしれない。お茶会だって誘ってくれなくなるだろう。

 そんな絶望を抱えたカワカミを外に連れ出したのは、キングの手だった。
 彼女はカワカミの腕を強引に掴み、食堂から連れ出してしまった。

 ★

 キングヘイローはカワカミプリンセスの腕を引っ張りながら考えていた。

 彼女はいつから悩んでいた?
 私はどうして気づけなかったの?
 成績が振るわないときからもっと寄り添えばよかった。
 私がもっとそばにいれば気付けていたかもしれないのに。

 やがてトレーニングコースまでやってくると、彼女は掴んでいた手を離した。
 腕時計を見る。時刻は12:49。
 お昼の予鈴が鳴るのが13:10だから、まだ時間はある。

 すると訳もわからずここまで大人しく連れてこられたカワカミは、
「キングさん……?どうされましたの……?」
 と少し怯えた顔で尋ねてきた。
 もう流石に泣き止んでいたものの、少し顔が赤くなっていた。

「カワカミさん、今から併走しましょう。それも本気でよ」
 突飛な提案に、カワカミは呆気に取られているようだった。

「え、えーと……キングさん? それはどういうことでしょうか……?」
 顔面にハテナと大きく書いてあるかのような表情。

「そのままよ。カワカミさんと併走がしたくなったの。」
「えぇ……? 私昼食をいただいたところなので少し走りが鈍くなると思うんですが……?」
「私もそれは一緒よ。さぁ、走りましょう?そうね、距離は貴方の得意なマイルにしましょうか」
 と、キングは半ば強引にカワカミを併走に参加させる。

 カワカミは明らかに意図がわからないといった顔でスタート線に用意した。
 続いてキングもスタート線に用意し、二人はいつでも走れる状態になった。

「カワカミさん。貴方、私のこと本気でぶっ潰してみて」
 キングは小さな声で、しかし確実に聞こえる声量で言った。
 前だけを向いて言ったのでカワカミの表情は分からない。
 いや、あえて見ないようにしていた。
 彼女の走りから、彼女の心を酌みたい。
 口で言ってくれないのなら、走りで対話するだけ。

「じゃあ、行くわよ。よーい、ドンッ」

 キングヘイローの合図で二人の併走が始まった。

 ★

 苦しい。
 走るのが辛い。
 どうしてキングさんは私にこんなことをさせるのかしら?
 食べた後だからお腹が重いのはもちろんだけど、キングさんが私に言ったあの言葉。

『カワカミさん。貴方、私のこと本気でぶっ潰してみて』

 そんなことできるわけない。
 だって、キングさんは私の憧れだから。
 どうしてそんなことを言うの?
 キングさんにはずっと私の前を走っていて欲しい。
 今までも走りながら苦しくなる時はたくさんあったけど、今日は特に苦しく、辛く感じる。
 どうして?
 足が鈍っている感覚が生々しい。
 これならもはや、ジュニア級のときのほうがマシな走りをしていたんじゃないだろうか?

 カワカミはいつもの切れ味のある差し足を見せることなく、キングに続いてゴールした。

 走り終わった後、カワカミがコースにへたりこんでいると、キングが近づいてきた。

「カワカミさん、貴方がなぜ不調なのか分かったわよ。」
「えっ……!」

 カワカミはガバッと顔をあげる。

「貴方、私のことは追いかけるべきものだと思っているわね」
「え……、そうじゃありませんの?」
 カワカミは、キングのスカートの裾が少し土で汚れていることに気づいた。

「もう、おばか。目標とは後ろから追いかけるものじゃなくて、どんどん追い抜かしていくものなのよ!」
 彼女の言葉にハッとした。続きの言葉を待つ。

「貴方、そうやってずっとキングのことを追いかけ続けようなんて、そんな甘っちょろい考えはダメよ。
 カワカミさん、貴方は私の後輩なんだから。絶対にキングを追い抜かさなきゃダメ。キングを追うウマ娘じゃなくてキングに追われるウマ娘にならないと、貴方はレースでもず〜〜〜〜っと私の背中を追いかける羽目になるわよ。」

 キングはいつもより少し早口でカワカミに語る。
 その様子はまるで自分に言い聞かせているようにも見えた。
 陽の光に晒されて、キングの鹿色の髪の毛は普段校舎で見る時よりも輝いて見えた。

「さぁ、今日の放課後から特訓よ。キングを追い抜かせるようになる特訓ね」

 いつまでもへたりこんでいないで行くわよ、と笑顔で差し伸べてくれた手を、カワカミは握り返した。
 キングの手は指先まで血が通っていて、すごく温かかった。カワカミは冷たい自分の手の温度を悟られてしまう、と思った。

 ★

 その日の放課後、キングとカワカミはお昼と同じトレーニングコースに臨んでいた。

 カワカミは昼休みにキングヘイローと別れてから、あんなことを言われた以上彼女を追い抜かさなければという強迫観念に囚われていた。

(私はキングさんを追い抜かす。私はキングさんを追い抜かす。私は……。)

「カワカミさん、顔が怖くなっているわよ」
「え……っ!」
 キングに指摘され、カワカミプは自分の手で顔をぐにぐにと揉みこむ。

「やっぱり、キングを追い抜かすことにまだ抵抗があるのかしら?」
「ええ、そりゃやっぱり……。キングさんは私の憧れですもの。憧れの方には、いつも前を走っていて欲しい。キングさんは私にとっての道標ですもの……」

 キングはカワカミの言葉を聞いてはっとする。

「みち、しるべ……」

 キングは自分が入学した頃のことを鮮やかに思い出した。

「……私、カワカミさんに私が走る理由、お話ししたことあったかしら」
「走る理由……?」

 キングは静かに語り始めた。

 自分には偉大な母親がいるということ。
 母親はトレセン学園に入学した自分をあまり好ましく思っていないこと。
 母や自分に期待する者たちを見返すために走っているということ。
 彼らを見返すためには母と同じ成績を取るのではなく、自分の力で母を超えてみせるのが必要であること。
 だから、カワカミにも全力で自分を超えに来てほしいということ。

 こんなことは知り合った当初話すつもりはなかったが、気付くと夢中で話していた。

 彼女はカワカミに『道標』と形容された瞬間、確かに嫌悪感が芽生えていたのだ。
 自分は誰かの道標になるために走っているわけではない。
 自分が母を超すために走っているように、自分は誰かの先輩である以上、自分も誰かに超えられる存在であって然るべきだ。
 ただしもちろん、自分を超そうと考えている者が現れたら敬意を表して全力で倒す。
 そんな思いが、キングの胸中にあった。

「……キングさん」
 彼女の全ての言葉を聞き終わったカワカミは、口を開いた。

「私、今までキングさんに無意識とはいえ、ずっと無礼な真似をいたしておりました。大変申し訳ございませんでしたわ。私、今日からキングさんのことを全力でぶっ潰して見せますわ。ご覧になってくださるかしら?」

 カワカミは憑き物が落ちたような、すっきりとした顔でキングと対面する。

「おーっほっほっほ!!」
 鋭い高笑いが響く。

「カワカミさん、やれるものならやってみなさいな。このキングはいつだって他のウマ娘が私の前を走ることを絶対に許さないんだから。それはカワカミさんだって同じよ」

 堂々と立っているカワカミの顔面に、キングは限りなく近づいてカワカミを威圧してみせた。
 以前のカワカミであったら動揺するか、怯えてここで逃げてしまっていたであろう。
 しかし、カワカミはもう動じない。

 二人は見つめ合う。
 それは友情や恋慕の視線などではない。
 正々堂々と潰し合う、ライバル同士の視線だ。
 まるで漫画のように、火花が散っているかのような視線の交わし合い。

「ふふっ、じゃあこれから併走してみましょうか?カワカミさんにとってはお昼のリベンジね。でも、絶っっ対負けないから」
「望むところですわ!相手がキングさんでもぶっ潰して差し上げますわよ!!!」

 これから、命懸けの二人の併走が始まる。

 ★

 プリファイ。
 私の心の中で、初めてみた時からずっと輝き続けている宝石のような存在。人生の生き方を説いてくれた、偉大なお姫様。

 夢とは自分の手で掴み取るもの。
 道とは自分の足で歩むもの。
 決して王子様は迎えに来てくれなどしない。
 華麗で、優雅に、勇ましく進むための方法を私に教えてくれた。

 キングさん。
 私にレースの全てを教えてくれた、私の偉大な先輩。
 トレセン学園で見た生徒の中で一番輝いている、私の二つ目の宝石のような存在。
 キングさんは外見も内面も素敵ですけど、私が一番輝いていると思うのはキングさんの命。命そのもの。

 レースとは命の削り合い。
 命を燃やして全てを追い抜かす。
 1着とは技術と体力が優れたウマ娘が獲るものではなくて、最も命を燃やしたウマ娘が獲るもの。

 私は今までプリファイやキングさんになるためには彼女らの後ろを走らなければならないと考えていた。

 でも今はわかる。それは違う。
 私はプリファイを卒業なんかしなくていい。
 キングさんの後ろをずっと走らないといけない、なんて決まりもない。
 私は自分の好きな道を辿って、彼女らから学べることを吸収して新しい私にならなければならない。
 彼女らをも凌駕する、新しい力を持った自分に変わらなければならない。

 そのことに、キングさんのおかげでやっと気付くことができた。
 これからは私もプリファイのように勇ましく、キングさんのように美しく、自分の道を走りたい。

 ★

 1年後。

 今日はカワカミプリンセスにとって人生二度目のエリザベス女王杯の日。

「う〜〜〜、緊張しますわっ」
 カワカミは控え室で担当トレーナーに勝負服の最終チェックをしてもらっているところだ。

「エリザベス女王杯は二度目だけどね。」
「何度だって緊張しますわ。だってこのレースで今年の女王が誰か決まりますのよ?しかも私は前回降着してしまいましたし……それにすご〜〜く久しぶりのレース……今度こそ1着取らないといけませんのよーっ!!」

 カワカミが声を上げた瞬間、ドアのノック音が聞こえた。

「きゃあ!もう召集ですの?」
「いや召集はまだのはず……はーい」

 担当トレーナーがドアを開けると、そこにはお土産袋を手にしたキングの姿があった。

「まぁ、キングさん!」
 カワカミの顔がパッと明るくなり、キングのもとに駆け寄った。

「失礼致します、カワカミさんとトレーナーさん。」
 キングはお土産袋を手近なテーブルに置く。

「うふふ、カワカミさんたら気合十分なのね。声が外まで聞こえていたわよ?」
 キングは駆け寄ってきたカワカミプリンセスの髪を撫でながら話す。

「うそ!?姫としたことがはしたない声をぉ〜!!」
 カワカミは頭を抱えてしまった。

「そこまで元気そうなら、キングが活を入れなくても大丈夫そうかしら?」
「えっ!? そんなことありませんわ!この緊張でガチガチの私に活をお願いしますっ!!!」

 その言葉を待ってたのよ、という顔をするとキングはカワカミの顔に自分の顔を近付けてどすの利いた声を出す。
「貴方、絶対にこのレースで勝って女王になりなさい。そうして貴方も誰かに超えられる存在になりなさい。いい?絶対よ。分かった?」

 カワカミはにっこり笑って、「あたぼうですわ!!」といい返事をした。

 その日カワカミプリンセスは見事エリザベス女王杯に勝利。
 遂に雪辱を果たし、ついに女王戴冠となったのであった。

「どっしゃぁぁぁああああーーーーー!!!!!!!」

 京都レース場に、新しい女王の雄叫びが響いた。
 それに呼応するように大勢の観客達が歓声を上げる。

 その様子を、キングヘイローはいつまでも見つめていた。