焔
「じゃあ、ボクがもし何か事件に巻き込まれたら最原クンに依頼しようかな」
「そうだな。俺も……もし凶悪犯罪だったりしたら、その時は霧切と二人体制で」
そう言って穏やかな顔で笑う苗木と日向の横顔を、キャンプファイヤーの赤い炎が煌々と照らす。冗談を言って一緒に笑い合う大切な友達。そんなありふれた——それでいて大切な関係がこの希望ヶ峰での三年間で育めたことは、最原にとって喜ばしいことだった。
「あはは……僕なんかが霧切さんの助けになるとはあんまり思えないんだけど……」
「そうかな? 霧切さんも前に最原クンのことを褒めてたよ。〝彼は私と違って人当たりがいいから、色々な人から情報を集めるのが上手だ〟って」
「えっ? 霧切さんがそんなことを?」
日向の「良かったじゃん、最原」という言葉を背に受けながら最原は霧切——、否、彼女の横で楽しそうに歓談する赤松の方に目を向けた。
希望ヶ峰には全国から集められた才能ある高校生達が集まる。日本、ないし世界を股にかけるような才能を持つ人物というのは、得てして自分の知らない経験や価値観を持っているものだ。それ故この学園の他の生徒と話すというのは、(癖の強い人物も少なくないが)それだけで糧になるものが多いと最原も常々感じていた。
そんな希望ヶ峰学園ももうすぐ卒業。卒業を目前にして行われた合宿——その合宿も終わろうとしている——の一環として行われたキャンプファイヤーでは、同学年の生徒や予備学科の生徒、附属小学校の生徒など様々な人間が一同に会して踊ったり、語らったり、バーベキューを楽しんだり——思い思いの夜を過ごしていた。
だから、赤松が霧切、舞園、七海の四人で歓談しているのも不思議なことではない。この合宿はあと一週間しか残されていないし、合宿が終われば卒業が待っている。希望ヶ峰学園の卒業生は、その性質上全員の進路が分かたれるのが道理である。だからこそ皆、今この時を大事にしておきたいという気持ちを共有し、確認しあっているのであろう。
だけど——。視界の端でキャンプファイヤーが海風でゆらりと動いて、彼女の金髪が炎に煌めく。
(彼女と、一緒にいたい)
赤松の横顔を見ていると、二人の思い出が胸の中に去来していく。入学式、彼女と初めて話した日。たちまち視界は桜の花に包まれる。桜の木の幹のようにどっしりした茶色の制服。ずっと憧れだった希望ヶ峰の制服は、一年生の最原の体には少し大きかった。学園に入学して、最初に話しかけてきたのは彼女からだった。彼女はきっと今より幼い顔をしていたのだろうけど、今と変わらない笑みを浮かべていたと思う。それから一緒に学校行事に励んだり、食堂でお昼ご飯を食べたり。放課後の教室でピアノの練習をしている彼女に付き合ったこともあった。三年間の学園生活で、彼女のことを忘れたときはひと時もなかった。それほど最原にとって赤松楓という存在は鮮烈で、眩かったのだ。
この合宿でも本当は赤松ともっと一緒に過ごしたかった。卒業前に残された時間を大切にしたかった。しかしこの合宿は生徒同士の仲を深めるためだけの行事ではない。主たる目的は、各々が自分の才能に新たな可能性を見出し、参加者全員が『希望のカケラ』を手に入れることである。それに加えてモノクマが放ったモノケモノ達のせいで、どうしても二人きりの時間を取るのは難しかったのだ。このジャバウォック島での一カ月半は長いようで、始まってみるとあっという間に過ぎ去ってしまった。
「最原、どうした?」
「……あっ。ご、ごめん、ぼーっとしちゃって」
日向の声で引き戻される。苗木と日向は訝し気にこちらを見ていた。二人の話も聞かずに他の女子の集団を見つめていたのだから当然だ。二人がそんなことで自分を責めたりするような人間ではないと分かってはいるのだが。
「僕、お水をもらってくるよ」
ちょっと暑くて、とダメ押しの言葉を添えてその場を離れた。別に悪いことをしている訳じゃないのに、なんだか逃げ出したいような気持ちになったのだ。
砂浜を離れて、道の外れにある水道までやってきた最原は蛇口を捻った。そこまで行かずともバーベキューのコンロまで向かえば花村や百田がミネラルウォーターを差し出してくれるだろうが、その時の最原は妙に落ち着かない気分だったのだ。
冷たい水が勢いよく流れ出し、喉の奥へと吸い込まれていく。火照っていた身体が冷やされて心地良い。ふぅと息をつくと、最原は空を見上げた。星明かりの下に広がる満天の星空——都会では絶対に見られない絶景だ。自分が今プログラム世界の中にいるだなんてとても信じられなかった。あの星の輝きもこの夜の生ぬるさもまやかしに過ぎないだなんて——。
(……あと、一週間で終わりか)
この合宿が終わったら程なくして卒業になる。嘘偽りのない正直な気持ちを吐くなら、もっと彼女と一緒にいたかったし、できれば卒業したくない。卒業してしまえば彼女と自分の道が分かたれるのがもう分かっているからだ。『超高校級のピアニスト』と『超高校級の探偵』の道が交わる方がおかしいと最原自身も理解している。実際彼女は卒業後にコンサートツアーを控えているらしい。きっと彼女のピアニストとしての仕事はこれからどんどん増えていくことだろう。卒業すれば、彼女が自分と一緒にいられる時間はますます減っていくに違いない。
でも、学園を卒業したくない気持ちも彼女と離れたくない気持ちも、子供っぽくて未熟な自分の我儘だ。きっと彼女は自分よりも先に大人になっている——、だからこそ学生でありながらピアニストとしての仕事を受けているのだろうし、卒業してもこの生き方をしていくことを受け入れられるのだろう。正直に言うと、一カ月半も彼女を自分の近くにいさせてくれる今回の合宿というのは、最原にとって僥倖と呼べるものであった。この合宿を企画してくれた学園にどこかで感謝してしまう自分が、一層ずるくて汚い奴に思えて仕方がなかった。
(やっぱり、僕は赤松さんにふさわしくない)
こうして眩い星空を眺めていると、星にすら嘲笑われているような気分になる。いつの間にか滲んだ涙を拭って、もう自分のコテージに戻ってしまおうかぼんやりと考えていた。苗木と日向には水を貰いに行くと言って抜けているので、そのまま姿を眩ませると心配を掛けてしまうかもしれない。どうしよう。かと言ってこのままここにいても惨めな気持ちになるだけだし……。得も言われぬ居心地の悪さに苛まれて、最原は遠くで賑わうキャンプファイヤーを眺めることしかできなかった。
「最原くん?」
「わぁ!?」
突然後ろから自分の名前を呼ばれ、素っ頓狂な声を上げてしまった。振り向くと、そこには愛しい女性である赤松が立っていた。いつもと変わらない笑顔がそこにある。しかしどうして? 自分がキャンプファイヤーを離れたときも、彼女は霧切達と談笑していたはずなのに。驚きが取り繕えなくて、そのまま疑問を口にする。
「あ、赤松さん、どうして」
「ふふ。料理を取ってくるって言って抜けちゃった。キミがキャンプファイヤーから離れていくのを見て、なんとなく追いかけたくなったんだ」
そう言って彼女は柔らかく微笑んだ。伏せた金色の睫毛に星の光が輝く。
——ああ、その笑顔に僕はこれまで何度救われたことか。独りで立ち止まっているとき、初めの一歩が踏み出せないとき、皆みたいに上手く歩けないとき。彼女は皆と同じように歩めない僕を笑わず、いつでもそばにいてくれたのだ。キミは僕の太陽なんだ。やっぱり卒業なんて嫌だ。僕とずっと一緒にいてほしい。
……そんな言葉を吐き出しそうになったが、目前のところで呑み込んだ。何よりも輝く彼女にこんな薄暗い気持ちは聞かせたくなかった。
「……最原くん」
「な、何?」
「キミ、隠し事してるでしょ」
「えっ?」
ほら、と鼻を指される。彼女の藤色の瞳が、その場で立ち尽くす最原を貫く。
「言いづらいことがあると顔を逸らしちゃうの。キミがまだ帽子を被って学園に来ていた頃からの癖」
「あ……」
言葉に詰まって逃げようと試みるが、逃げ道をもう彼女に封じられている以上最原に逃げ場はなかった。赤松にまた隠し事をしていると思われたくなくて、しかし目を合わせ続けることもできずに視線を彷徨わせる。星空、茂み、アスファルトの道路。結局顔を逸らす形になってしまっている、そんな最原の様子を見た赤松は小さく笑った。
「まったく、キミは本当に困った探偵さんだね。この合宿中だって私が何か悩んでるとすぐに気付いてくれたのに、キミはやっぱり一人で抱え込んじゃうし……」
そう言って伏せられた赤松の瞳はどこか寂しさを含んでいた——が、すぐいつもの笑顔を浮かべてこちらに向き直った。
「ねぇ、一緒にお話しない? こんな夜、もうないかもしれないし」
こんな夜、もうないかもしれない。
赤松の言葉にズキリと胸を痛めるが、最原は何とか平然を装って頷いてみせた。嬉しそうな赤松の背を追いながら、この三年間で痛みを隠すフリだけは上手くなったな、と思った。
◆
「ねぇ、隣……」
ベッドに腰かけた赤松が手招きする。その顔はほんのりと赤らんでいて、普段よりも艶やかな雰囲気を放っていた。最原が恐々と彼女の隣に腰かけると、二人分の重みでスプリングが軋む音がした。
「えへへ」
すると彼女は嬉しそうな表情を見せ、肩と肩を触れ合わせてきた。そのまま彼女は最原に寄りかかるように彼の身体にもたれる。
「……終一くん」
「あ……か、楓……」
コテージの冷房の中で、彼女の体温だけが緩やかに流れてくる。彼女の髪から漂うシャンプーの香りが鼻腔を満たし、最原の心臓の鼓動は否応なしに早まった。遠くから波の音が聞こえる。風に乗ってくる潮の香り、微かなクラスメイト達の騒めき。……こんな時間が永遠に続けばいいのに。そんな願いが叶うはずがないことに自分で打ちのめされたくなくて、最原は自身の太ももに乗せた手をぐっと握った。
「ね、終一くん」
「うん?」
「……お話、しない?」
「えっ……?」
「終一くん、やっぱり何か我慢してるんじゃない?」
彼女に言われて、思わず息を呑んだ。見抜かれている——。はっとして握りこぶしを解くが、時すでに遅し。不安げにこちらを見つめる赤松の瞳の前で嘘を吐けるほど、最原は強くなかった。
「……やっぱり楓には敵わないよ」
観念してそう呟くと、彼女はくすりと笑った。
「ふふ、私は終一くんのことなら何でも分かってるんだよ」
「じゃあ、僕の気持ちも分かる?」
「それは分からないけど……。でも、きっと私と同じ気持ちだと思うなぁ」
そう言うと、彼女はそっと最原の手を取った。自分よりも一回り小さな手の感触に心を揺さぶられる間もなく、赤松はそのまま指を絡めるようにして恋人繋ぎをしてきた。
「ねぇ……教えて? 私がまだ知らない終一くんのこと」
手の中で彼女の指が揺れる。柔らかいその感覚に、最原は繋いだ指先から融かされそうな思いだった。
「うん……」
今は赤松と一緒にいるだけで幸せだが、それがいつまでも続くとは限らない。卒業したら赤松と離れてしまうのだと思うと、このままではいられない。最原は今まで心に押し込んでいた思いを赤松に吐き出し始めた。赤松と離れたくないから、この合宿が終わって学園を卒業するのが嫌だということ。そして、こんな子供じみた感情を持つ自分のことはもっと嫌だということ。
最原は、他人にここまで自分の内を曝け出すのは初めてだった。拙い言葉でも最原が最後まで気持ちを形にできたのは、彼女がずっと側にいてくれたからだった。彼女の隣だから言えた。彼女が受け止めてくれると信じられた。
赤松は、黙って最原の話を聞いてくれた。話が終わるまで何も言わず、ただ優しく手を握ってくれていた。
「……ごめん。こんなことやっぱり話すべきじゃなかった」
全てを話し終えた後、最原は謝罪を口にした。彼が赤松の顔を見ることができず俯いていると、不意に頬を両手で挟まれた。驚きの声を上げる。そして、上を向くよう促された。
「ふふ……もう、終一くんったら。私は話してくれて嬉しかったよ?」
そこには慈愛に満ちた微笑みがあった。月の光を浴びた赤松の笑顔はとても眩しくて、最原は吸い込まれるような気持ちでそれを見た。
「ねぇ、終一くん。キミが望むなら、これからもずっと一緒にいられる方法を考えよう?」
「えっ……?」
「私だって卒業しても、ずっとキミと一緒にいたい。キミがいない未来なんて考えられないよ」
そう言って、赤松は最原の唇に口づけを落とす。柔らかい、それだけで最原は全身が痺れてしまうような心地だった。
「それにさ、私もキミと一緒だよ。キミと離れて暮らす自分が想像できない。いつも頭の中に浮かんでくるのは終一くんのことばっかりなんだもん」
そう言って赤松は顔を紅くして笑った。ふわっと微笑む柔和ないつもの笑顔ではなく、少し恥ずかしそうな笑み。そんな彼女の笑みに、最原の心はどうしようもなく揺り動かされた。
「楓……」
「終一くん」
赤松はもう一度最原に向き直ると、今度は正面から抱きついてきた。
「好きだよ。終一くん、大好き。キミのこと、もっと教えて」
彼女の温もりが、言葉が、彼女の全てが最原を包み込む。もう我慢できなかった。最原は彼女を強く抱きしめ返した。自分よりも細い身体だけど、決して折れたりはしない。強くて、しなやかで——なんというか、生きてゆくための芯みたいなものが感じられる。やっぱり楓のことは離したくない。このまま二人溶け合って一つになれたらどんなに幸せだろうか。彼女の体温を感じながら、最原はそんなことを思った。
「楓、好き」
「私も。終一くん、好き」
彼女に好きと言われると心の奥底がじんわりと暖かくなる。まるで魔法みたいに、その言葉を聞くだけで幸せな気分になれるのだ。そのまま二人は何度もお互いの名前を呼び合った。その度に胸の中に溜まっていた想いが溢れ出して止まらなかった。
「そうだな。俺も……もし凶悪犯罪だったりしたら、その時は霧切と二人体制で」
そう言って穏やかな顔で笑う苗木と日向の横顔を、キャンプファイヤーの赤い炎が煌々と照らす。冗談を言って一緒に笑い合う大切な友達。そんなありふれた——それでいて大切な関係がこの希望ヶ峰での三年間で育めたことは、最原にとって喜ばしいことだった。
「あはは……僕なんかが霧切さんの助けになるとはあんまり思えないんだけど……」
「そうかな? 霧切さんも前に最原クンのことを褒めてたよ。〝彼は私と違って人当たりがいいから、色々な人から情報を集めるのが上手だ〟って」
「えっ? 霧切さんがそんなことを?」
日向の「良かったじゃん、最原」という言葉を背に受けながら最原は霧切——、否、彼女の横で楽しそうに歓談する赤松の方に目を向けた。
希望ヶ峰には全国から集められた才能ある高校生達が集まる。日本、ないし世界を股にかけるような才能を持つ人物というのは、得てして自分の知らない経験や価値観を持っているものだ。それ故この学園の他の生徒と話すというのは、(癖の強い人物も少なくないが)それだけで糧になるものが多いと最原も常々感じていた。
そんな希望ヶ峰学園ももうすぐ卒業。卒業を目前にして行われた合宿——その合宿も終わろうとしている——の一環として行われたキャンプファイヤーでは、同学年の生徒や予備学科の生徒、附属小学校の生徒など様々な人間が一同に会して踊ったり、語らったり、バーベキューを楽しんだり——思い思いの夜を過ごしていた。
だから、赤松が霧切、舞園、七海の四人で歓談しているのも不思議なことではない。この合宿はあと一週間しか残されていないし、合宿が終われば卒業が待っている。希望ヶ峰学園の卒業生は、その性質上全員の進路が分かたれるのが道理である。だからこそ皆、今この時を大事にしておきたいという気持ちを共有し、確認しあっているのであろう。
だけど——。視界の端でキャンプファイヤーが海風でゆらりと動いて、彼女の金髪が炎に煌めく。
(彼女と、一緒にいたい)
赤松の横顔を見ていると、二人の思い出が胸の中に去来していく。入学式、彼女と初めて話した日。たちまち視界は桜の花に包まれる。桜の木の幹のようにどっしりした茶色の制服。ずっと憧れだった希望ヶ峰の制服は、一年生の最原の体には少し大きかった。学園に入学して、最初に話しかけてきたのは彼女からだった。彼女はきっと今より幼い顔をしていたのだろうけど、今と変わらない笑みを浮かべていたと思う。それから一緒に学校行事に励んだり、食堂でお昼ご飯を食べたり。放課後の教室でピアノの練習をしている彼女に付き合ったこともあった。三年間の学園生活で、彼女のことを忘れたときはひと時もなかった。それほど最原にとって赤松楓という存在は鮮烈で、眩かったのだ。
この合宿でも本当は赤松ともっと一緒に過ごしたかった。卒業前に残された時間を大切にしたかった。しかしこの合宿は生徒同士の仲を深めるためだけの行事ではない。主たる目的は、各々が自分の才能に新たな可能性を見出し、参加者全員が『希望のカケラ』を手に入れることである。それに加えてモノクマが放ったモノケモノ達のせいで、どうしても二人きりの時間を取るのは難しかったのだ。このジャバウォック島での一カ月半は長いようで、始まってみるとあっという間に過ぎ去ってしまった。
「最原、どうした?」
「……あっ。ご、ごめん、ぼーっとしちゃって」
日向の声で引き戻される。苗木と日向は訝し気にこちらを見ていた。二人の話も聞かずに他の女子の集団を見つめていたのだから当然だ。二人がそんなことで自分を責めたりするような人間ではないと分かってはいるのだが。
「僕、お水をもらってくるよ」
ちょっと暑くて、とダメ押しの言葉を添えてその場を離れた。別に悪いことをしている訳じゃないのに、なんだか逃げ出したいような気持ちになったのだ。
砂浜を離れて、道の外れにある水道までやってきた最原は蛇口を捻った。そこまで行かずともバーベキューのコンロまで向かえば花村や百田がミネラルウォーターを差し出してくれるだろうが、その時の最原は妙に落ち着かない気分だったのだ。
冷たい水が勢いよく流れ出し、喉の奥へと吸い込まれていく。火照っていた身体が冷やされて心地良い。ふぅと息をつくと、最原は空を見上げた。星明かりの下に広がる満天の星空——都会では絶対に見られない絶景だ。自分が今プログラム世界の中にいるだなんてとても信じられなかった。あの星の輝きもこの夜の生ぬるさもまやかしに過ぎないだなんて——。
(……あと、一週間で終わりか)
この合宿が終わったら程なくして卒業になる。嘘偽りのない正直な気持ちを吐くなら、もっと彼女と一緒にいたかったし、できれば卒業したくない。卒業してしまえば彼女と自分の道が分かたれるのがもう分かっているからだ。『超高校級のピアニスト』と『超高校級の探偵』の道が交わる方がおかしいと最原自身も理解している。実際彼女は卒業後にコンサートツアーを控えているらしい。きっと彼女のピアニストとしての仕事はこれからどんどん増えていくことだろう。卒業すれば、彼女が自分と一緒にいられる時間はますます減っていくに違いない。
でも、学園を卒業したくない気持ちも彼女と離れたくない気持ちも、子供っぽくて未熟な自分の我儘だ。きっと彼女は自分よりも先に大人になっている——、だからこそ学生でありながらピアニストとしての仕事を受けているのだろうし、卒業してもこの生き方をしていくことを受け入れられるのだろう。正直に言うと、一カ月半も彼女を自分の近くにいさせてくれる今回の合宿というのは、最原にとって僥倖と呼べるものであった。この合宿を企画してくれた学園にどこかで感謝してしまう自分が、一層ずるくて汚い奴に思えて仕方がなかった。
(やっぱり、僕は赤松さんにふさわしくない)
こうして眩い星空を眺めていると、星にすら嘲笑われているような気分になる。いつの間にか滲んだ涙を拭って、もう自分のコテージに戻ってしまおうかぼんやりと考えていた。苗木と日向には水を貰いに行くと言って抜けているので、そのまま姿を眩ませると心配を掛けてしまうかもしれない。どうしよう。かと言ってこのままここにいても惨めな気持ちになるだけだし……。得も言われぬ居心地の悪さに苛まれて、最原は遠くで賑わうキャンプファイヤーを眺めることしかできなかった。
「最原くん?」
「わぁ!?」
突然後ろから自分の名前を呼ばれ、素っ頓狂な声を上げてしまった。振り向くと、そこには愛しい女性である赤松が立っていた。いつもと変わらない笑顔がそこにある。しかしどうして? 自分がキャンプファイヤーを離れたときも、彼女は霧切達と談笑していたはずなのに。驚きが取り繕えなくて、そのまま疑問を口にする。
「あ、赤松さん、どうして」
「ふふ。料理を取ってくるって言って抜けちゃった。キミがキャンプファイヤーから離れていくのを見て、なんとなく追いかけたくなったんだ」
そう言って彼女は柔らかく微笑んだ。伏せた金色の睫毛に星の光が輝く。
——ああ、その笑顔に僕はこれまで何度救われたことか。独りで立ち止まっているとき、初めの一歩が踏み出せないとき、皆みたいに上手く歩けないとき。彼女は皆と同じように歩めない僕を笑わず、いつでもそばにいてくれたのだ。キミは僕の太陽なんだ。やっぱり卒業なんて嫌だ。僕とずっと一緒にいてほしい。
……そんな言葉を吐き出しそうになったが、目前のところで呑み込んだ。何よりも輝く彼女にこんな薄暗い気持ちは聞かせたくなかった。
「……最原くん」
「な、何?」
「キミ、隠し事してるでしょ」
「えっ?」
ほら、と鼻を指される。彼女の藤色の瞳が、その場で立ち尽くす最原を貫く。
「言いづらいことがあると顔を逸らしちゃうの。キミがまだ帽子を被って学園に来ていた頃からの癖」
「あ……」
言葉に詰まって逃げようと試みるが、逃げ道をもう彼女に封じられている以上最原に逃げ場はなかった。赤松にまた隠し事をしていると思われたくなくて、しかし目を合わせ続けることもできずに視線を彷徨わせる。星空、茂み、アスファルトの道路。結局顔を逸らす形になってしまっている、そんな最原の様子を見た赤松は小さく笑った。
「まったく、キミは本当に困った探偵さんだね。この合宿中だって私が何か悩んでるとすぐに気付いてくれたのに、キミはやっぱり一人で抱え込んじゃうし……」
そう言って伏せられた赤松の瞳はどこか寂しさを含んでいた——が、すぐいつもの笑顔を浮かべてこちらに向き直った。
「ねぇ、一緒にお話しない? こんな夜、もうないかもしれないし」
こんな夜、もうないかもしれない。
赤松の言葉にズキリと胸を痛めるが、最原は何とか平然を装って頷いてみせた。嬉しそうな赤松の背を追いながら、この三年間で痛みを隠すフリだけは上手くなったな、と思った。
◆
「ねぇ、隣……」
ベッドに腰かけた赤松が手招きする。その顔はほんのりと赤らんでいて、普段よりも艶やかな雰囲気を放っていた。最原が恐々と彼女の隣に腰かけると、二人分の重みでスプリングが軋む音がした。
「えへへ」
すると彼女は嬉しそうな表情を見せ、肩と肩を触れ合わせてきた。そのまま彼女は最原に寄りかかるように彼の身体にもたれる。
「……終一くん」
「あ……か、楓……」
コテージの冷房の中で、彼女の体温だけが緩やかに流れてくる。彼女の髪から漂うシャンプーの香りが鼻腔を満たし、最原の心臓の鼓動は否応なしに早まった。遠くから波の音が聞こえる。風に乗ってくる潮の香り、微かなクラスメイト達の騒めき。……こんな時間が永遠に続けばいいのに。そんな願いが叶うはずがないことに自分で打ちのめされたくなくて、最原は自身の太ももに乗せた手をぐっと握った。
「ね、終一くん」
「うん?」
「……お話、しない?」
「えっ……?」
「終一くん、やっぱり何か我慢してるんじゃない?」
彼女に言われて、思わず息を呑んだ。見抜かれている——。はっとして握りこぶしを解くが、時すでに遅し。不安げにこちらを見つめる赤松の瞳の前で嘘を吐けるほど、最原は強くなかった。
「……やっぱり楓には敵わないよ」
観念してそう呟くと、彼女はくすりと笑った。
「ふふ、私は終一くんのことなら何でも分かってるんだよ」
「じゃあ、僕の気持ちも分かる?」
「それは分からないけど……。でも、きっと私と同じ気持ちだと思うなぁ」
そう言うと、彼女はそっと最原の手を取った。自分よりも一回り小さな手の感触に心を揺さぶられる間もなく、赤松はそのまま指を絡めるようにして恋人繋ぎをしてきた。
「ねぇ……教えて? 私がまだ知らない終一くんのこと」
手の中で彼女の指が揺れる。柔らかいその感覚に、最原は繋いだ指先から融かされそうな思いだった。
「うん……」
今は赤松と一緒にいるだけで幸せだが、それがいつまでも続くとは限らない。卒業したら赤松と離れてしまうのだと思うと、このままではいられない。最原は今まで心に押し込んでいた思いを赤松に吐き出し始めた。赤松と離れたくないから、この合宿が終わって学園を卒業するのが嫌だということ。そして、こんな子供じみた感情を持つ自分のことはもっと嫌だということ。
最原は、他人にここまで自分の内を曝け出すのは初めてだった。拙い言葉でも最原が最後まで気持ちを形にできたのは、彼女がずっと側にいてくれたからだった。彼女の隣だから言えた。彼女が受け止めてくれると信じられた。
赤松は、黙って最原の話を聞いてくれた。話が終わるまで何も言わず、ただ優しく手を握ってくれていた。
「……ごめん。こんなことやっぱり話すべきじゃなかった」
全てを話し終えた後、最原は謝罪を口にした。彼が赤松の顔を見ることができず俯いていると、不意に頬を両手で挟まれた。驚きの声を上げる。そして、上を向くよう促された。
「ふふ……もう、終一くんったら。私は話してくれて嬉しかったよ?」
そこには慈愛に満ちた微笑みがあった。月の光を浴びた赤松の笑顔はとても眩しくて、最原は吸い込まれるような気持ちでそれを見た。
「ねぇ、終一くん。キミが望むなら、これからもずっと一緒にいられる方法を考えよう?」
「えっ……?」
「私だって卒業しても、ずっとキミと一緒にいたい。キミがいない未来なんて考えられないよ」
そう言って、赤松は最原の唇に口づけを落とす。柔らかい、それだけで最原は全身が痺れてしまうような心地だった。
「それにさ、私もキミと一緒だよ。キミと離れて暮らす自分が想像できない。いつも頭の中に浮かんでくるのは終一くんのことばっかりなんだもん」
そう言って赤松は顔を紅くして笑った。ふわっと微笑む柔和ないつもの笑顔ではなく、少し恥ずかしそうな笑み。そんな彼女の笑みに、最原の心はどうしようもなく揺り動かされた。
「楓……」
「終一くん」
赤松はもう一度最原に向き直ると、今度は正面から抱きついてきた。
「好きだよ。終一くん、大好き。キミのこと、もっと教えて」
彼女の温もりが、言葉が、彼女の全てが最原を包み込む。もう我慢できなかった。最原は彼女を強く抱きしめ返した。自分よりも細い身体だけど、決して折れたりはしない。強くて、しなやかで——なんというか、生きてゆくための芯みたいなものが感じられる。やっぱり楓のことは離したくない。このまま二人溶け合って一つになれたらどんなに幸せだろうか。彼女の体温を感じながら、最原はそんなことを思った。
「楓、好き」
「私も。終一くん、好き」
彼女に好きと言われると心の奥底がじんわりと暖かくなる。まるで魔法みたいに、その言葉を聞くだけで幸せな気分になれるのだ。そのまま二人は何度もお互いの名前を呼び合った。その度に胸の中に溜まっていた想いが溢れ出して止まらなかった。